stars we chase
渋谷は明治通りの宮下第一歩道橋の上に立って駅の方向に視線を向けると、駅のすぐ隣に建っているクソデカいビルがちょうど視界の真ん中を埋めるようにして目に入る。俺はこのビルが好きだ。本当に尋常じゃなくバカクソにデカい、渋谷スクランブルスクエアというイカした名前のこのビルは、快晴の日には全面の窓ガラスが陽光を反射して鏡のように滑らかに輝き、さながら原初の荒れ野に鎮座ましますモノリスの如く、コンクリートジャングルの只中にあってさえ一種異質な存在感を放っている。天に突き刺さるようにそびえ立つその姿を見ていると、圧倒的にデカいモノがその成り立ちや性質の如何に関わらず宿す、理屈抜きの荘厳さや威圧感といったものを感じずにはおれない。背の低いビルとボロい民家ばかりがまばらに立ち並ぶ平坦で貧相な地方都市で漫然と生きてきた俺にとって、こういう巨大できらびやかな建造物というものはほとんど異世界めいた非日常の象徴であり、まさしくモノリスに触れて知性を獲得した紀元前のサルの如く、眺めているだけで新鮮な刺激が脳内に流れ込んでくるような感覚を覚えるのだ。しかし、まあ、要するに田舎者がデカいビルを見てテンション上がってるだけじゃん、と言ってしまえば、それで終わってしまうだけのことではある。
人生が変わった筈のあの日からもう3年と4か月が過ぎ、俺にとってある一つの大切な想い出と分かち難く結びついているこのクソデカビルの威容も、何度となく足を運ぶ内にだいぶ見慣れたものとなった。燦然たるモノリスのようだった窓ガラスの輝きも、ひところに比べれば幾分落ち着いて、そこいらに腐るほど林立しているビルディングの外観と大差ないように見える。3年と4か月前のあの夜、人生の終わりまで追いかけると誓った星は巡り巡って随分と遠くまで行ってしまい、俺は今でもそれを目指してジタバタと足掻き続けてみてはいるものの、そんなストラグルが果たして実を結ぶかと言えばこれは正直なところかなり疑わしい。もちろん、届かないのが分かり切っているからといって「では」とすっぱり諦められるほど器用な頭はしていないから、俺はこれからも死ぬまで走り続けるしかない。心がけ云々の話ではなく、本当に本気の事からは人間はどのみち逃げられないのだ。実際もうかなりうんざりしてきてるんだけど、それでも。
去る2022年12月17日、俺は再び内田秀さんを目撃した。
内田秀という女性声優がいったい何者で、俺にとってどういう存在であるかについての説明は省略する。2年くらい前にキモい長文を書いていたので暇で暇で仕方がないという人だけそちらに目を通してほしい。ともあれ、こんな気色の悪い文章をわざわざ広大無辺なインターネットの海から見つけ出し、剰えここまで読み進めるような奇特な人間、即ち画面の前の貴方ならばとうに御存知かとは思うが、ここ1,2年の間における彼女の躍進は頓に目覚ましいものがある。知名度を大きく引き上げる契機となった、某スクールアイドルプロジェクトというオタク界を席巻するビッグタイトルへの抜擢をはじめ、個人youtubeチャンネルの開設、冠番組の始動、さらには満を持したオフィシャルファンクラブの設立などなど、数え上げればキリがない。これらがひとえに彼女の持ち前の才覚と弛まぬ向上心、そして類稀なる人徳の賜物であることに疑いの余地は無いだろう。流石に今現在第一線で活躍している人気声優たちに比べればキャリアは浅く、実力に見合った人気は遺憾ながらまだ得られていないのが現状だが、そのギャップが埋められる日もそう遠くはないはずだ。もちろん嬉しいし、誇らしい。俺はずっと信じていた。今はまだ日の目を見なくとも、いつか必ず、彼女は誰よりも高く羽撃いていくのだと。
今となっては信じ難い、全くふざけたような話だが、彼女にも鳴かず飛ばずの時期というものがあった。同年代の若手声優たちが次々にブレイクしていく中、彼女はなかなか出演作に恵まれず、取り残されたかのように燻っていた。もちろん彼女自身、思うところは多々あったに違いなく、時折自身の力不足を嘆くようなツイートが夜更けにぽつりと呟かれたりして、俺はそれを見る度、胸が締め付けられるように感じていた。一向に増えないウィキペディアの出演作品の欄を忸怩たる思いで眺めていた。現代のシビアな声優業界においては、顔がいいとか声がいいとか性格がいいとか歌が歌えるとかダンスが踊れるとか、そんなものは大勢に踏み潰されて押し流される矮小な個性のひとつに過ぎない。見果てぬ夢を胸に滾らせた新人たちが雨後の筍のように湧いては、数年もしないうちに非情な現実の前に敗れ、成す術なく散っていく。そういう世界だ。彼女ほどの非凡な才能を以てしても、簡単に名を揚げることは叶わない。それくらいは俺にも分かっているし、人気商売とは元来そういうものだと言ってしまえばそれまでである。しかし、だとしても、彼女だけは別である筈だった。誰よりも真面目でひたむきで、とめどない情熱を原動力に研鑽を重ねてきた彼女が、その真っ直ぐな意志が、海を越えるほどの夢が、くだらない巡り合わせや理不尽な仕組みの前に潰えてしまっていい道理などあるわけがない。あってたまるか。彼女のような人間が報われない世界など根本から間違っているのだ。俺は夜毎、不出来な世界を憎みながら、Google翻訳とにらめっこして作った稚拙な英文でせっせと応援のリプライを送っていた。英語を母語とする彼女の心に届けるには、拙くともその方が適している気がしていたのだ。金も才能もない一ファンの立場でどうすれば彼女を支えられるか、その背を押せるか、不安や悲しみを和らげることができるか。そればかりを考えながら言葉を尽くしていた。そうすることしか俺には出来なかった。何とも情けない話だが、今にしてみればそれは半ば自分の為でもあったのだと思う。彼女の夢が実を結ばずに終わってしまっていたら、俺はきっと何もかもに絶望して立ち直れなくなっていたに違いないから。
いくつもの夜を経て、ついに転機は訪れた。世界は間違ってはいなかった。雌伏の末――と言っても実際には公表されるよりずっと前からキャスティングだの何だのは水面下で進行していたんだろうが、あくまでもファンの目線からの話として、それはこの際さて置く――彼女は無二のチャンスをものにした。自分の武器を最大限に活かし、大きな機会を見事に掴み取ったのだ。そこからは速かったように思う。まったく痛快なまでの勢いで、彼女の名は界隈に知れ渡っていった。演じたキャラクターの設定や言動が旧来のファンから受け入れられず、いくら物議を醸そうとも、ヘイトじみた心無い下馬評を浴びようとも、その全てを実力で捻じ伏せ、黙らせてきた。彼女の演じるキャラが所属するユニットは3人組だが、他の2人と比較しても――もちろん多分に贔屓目が含まれている自覚はある。他の2人のファンの方、ありえないとは思うがもしこれを読んでいたらすみません。あくまでも個人的な意見として受け止めて頂ければ幸いです――ライブにおける彼女のパフォーマンスの質は飛び抜けている。よく通る明瞭な発声、ハイテンポな英詞を乗りこなす歌唱に、感情の昂ぶりが伝わってくる機敏で快活なダンス。どれをとっても新人離れしている。比較的小柄な体躯に収まりきらないエネルギーの炸裂がありありと目に見えるようだ。それらが相当量のハードな訓練に裏打ちされたものであることは想像に難くない。そうした努力が正しく報われたことに俺は何よりまず安堵した。本当によかった。俺の苦患すら報われたように錯覚するほどだった。運命は彼女を裏切らなかったのだ。それまで内田秀の名前を知らなかったオタク達がその堂々たる歌唱に耳を奪われ、驚愕と共に魅入られていく様を、俺はまるっきり地下アイドルのライブにおける後方腕組み彼氏面キモオタクの顔で「フン……今更気づいたのか?」と優越感に浸りながら眺めていた。下品だがこればっかりは自慢させてほしい、俺はデビュー当時から彼女のことを知っていたし応援していたのだ。内田秀さんが最高だなんて、そんなこと最初から分かってたんだ。アンテナが低すぎるぞお前たち。まあとにかく、そんな感じで彼女の名前は、さながら一条の流れ星を思わせる鮮烈さで多くのオタク達の記憶に燦然と焼き付いた。この一年でほぼ倍近くにまで跳ね上がり、じきに10万の大台に達しようとしているツイッターのフォロワー数が、駆け抜けた流星の眩さを今なお克明に物語っていると言えるだろう。
(※追記:2023年3月21日、無事にフォロワー10万人に到達したようです。おめでとうございます)
4年前はこんなにもあどけない様相でギクシャクとサイリウムダンスを踊っていた彼女が――もちろん、これはこれでかわいいけれど――、
今はこんなにも堂々としたパフォーマンスを披露するようになったのだ。感無量とはこのことである。
快進撃は続いていく。きっと彼女はこれからも、あの屈託のない笑顔で万人を魅了しながら、どんな障壁も隔絶も易々と乗り越えて、夢に向かって邁進していくに違いない。俺は嬉しい。そんな彼女を、誰に選ばされたのでもなく、自分の意思で選んで好きになれたことが。今まで大して実のある応援が出来ていたわけではなくて、精々がツイッターにリプライを飛ばすとか番組にお便りを送るとか、その程度のことしかしてこれなかったが、それでも、たとえほんの僅かであってもそれらの行為が彼女に力を添えられていたのなら、そうすることを選んだ自分を肯定してやれる。思い上がった物言いを許してもらいたいが、彼女を見込んだこの目に狂いはなかったのだと、そんな気持ちでいる。内田秀という偉大な輝きを彩る星屑の一欠片で在れることを誇らしく思っている。
概ねは。
そんな輝かしく喜ばしい筈の光景を、心から寿ぐことができなくなったのは果たしていつ頃からだっただろうか。長かった雌伏はついに報われ、彼女は栄光の高みへと続く階を順調に昇りつつある。だというのに、俺はどこか冷めていた。彼女の名声が界隈に響き渡り、各所での活躍も増え、多くの新規ファンから歓びを以て受け容れられていくにつれて、それと反比例するように俺の心は芯から冷えていった。俗に推し活と呼ぶべき類の行為にめっきり身が入らなくなった。ゲームは触らなくなったしアニメも見なくなった。以前はネット上にアップされる彼女の画像や動画を逐一保存してはスマホに入れて暇さえあれば眺め回し、他愛のないおはツイの一つですらスクショしていたのに、それもすっかりやらなくなった。頻繁に行われる生放送や配信にもすぐについていけなくなった。少し前までの俺なら大喜びでかじりついて録画もしていただろうに。ライブ映像での溌剌としたパフォーマンスを目にする度、心の一番深く柔らかいところが毛羽立つような心地がした。恋に恋する乙女さながら、四六時中何をするにも彼女のことばかりを考えていたほんの1,2年前の自分が丸ごと嘘であったかのように、ずっと胸を占めていたある種の狂熱が不可解なほどの速度で引いていく自覚があった。何かの歯車が気付かないうちに決定的に食い違っていたような、全てがどうしようもなく上滑りしていくような薄ら寒い感覚。停滞した日々の中で無為な足踏みを繰り返しながら、見る間に彼方へ遠ざかっていく星をただ眺めるしかない自分の姿を俯瞰した時、言い様のない空しさを押し殺すことがいつの間にか出来なくなっていた。想いが完全に冷めきってしまったとか、飽きたとか嫌いになったとかいう訳では断じてない。ただ、有り体に、疲れていた。
もはや隠しようもなく、俺の信仰は大きく揺らいでいた。勿論これは彼女ではなく俺自身に起因していることである。そのはずだ。彼女は何も変わってなどいない。誰に何を憚る謂れもなく、ただその輝きを研ぎ澄まして、当然辿るべきだった運命の道筋をまっすぐ突き進んでいるに過ぎない。変わったのは間違いなく、その現実を受け止める俺の眼球と脳みその方だ。これは一体どういうことなのだろう。あっという間に手の届く範囲から飛び去ってしまった彼女への酸っぱい葡萄的心理、下卑た独占欲の裏返しだろうか。そうではないと思いたい。少なくとも自覚の及ぶ範囲においては、俺はまだ純粋な気持ちで彼女を好くことが出来ている。俺の応援とは、そんな浅ましい感情に根差した不純な代物ではなかったはずだ。彼女は俺ごときの卑小な世界観では到底計り知れないほどの高みへ飛躍していくことを約束された人種であるからして、そんな卑俗な欲望を差し挟む余地など初めから毫ほどもありはしなかったのだから。それでは何故。あるいは、彼女の立身に大きく寄与した某スクールアイドルプロジェクトの作品群に対して、俺が個人的に興味を持てないからだろうか。それも違う気がする。確かに件の某作品は今や内田秀の代名詞だが、彼女はそれ以外にも様々な作品に出演しているのだ。そのいずれにも手を出す気が起きないことへの説明がつかない。それとも単純に、もう彼女はハイパー爆売れ街道まっしぐらに違いないから俺みたいな木っ端ファンの一人くらい居ても居なくても変わらないだろうという女々しい捨て鉢だろうか。眩しすぎる彼女の姿に目を焼かれ、それまでの羨望が惨めな劣等感に裏返ったのだろうか。それが一番ありそうな線だが認めたくはない。まるで袖にされた男の負け惜しみのようではないか。しかし、では、やはり何故。問いと疑いは折り重なり、明瞭な答えを何一つとして得られないまま、俺は自分でも見通せない心の奥底の闇へと探りを入れることにいつしか恐怖さえ覚えるようになっていた。その深淵から掘り起こされる答えが、もっと想像を超えておぞましい何かであったとしたら、俺はその事実にとても耐えられない気がした。自分は一体、何を失おうとしているのだろう。何も分からない。分からないが、ただ一つだけ、残酷なまでに確かなことがあった。"最初の扉"が開いた先には、何も無かったのだ。
一応弁明しておくと、俺は別に報われたいわけではない。ただ好きなものを好きでい続けたいだけだった。通俗的な幸福観に縛られず、ただ己の理想を追求し全うする生き方を、その美しさを、俺は沢山の人や物から教わった。示してもらったその生き方を自分も同じようになぞりたいと思った。けれどその生き方は、無論のこと簡単なものではない。外的な要因――"普通"の人たちから注がれる奇異や嫌悪の眼差し、押し付けられる価値観、有形無形の外圧などは、無視すればそれで済むから大したことはないが、厄介なのはむしろその逆、己の裡から止め処なく膨れ上がる内圧だった。もっと深く根源的で、ひどく抽象的で漠然とした、あるいは人生と呼ぶべき巨大な何かへの疑い。意味を求めてきた訳ではないが、無意味に終わりたい訳でもない。俺が奉じる輝きは、本当に心からの信仰に値するものだろうか。俺の目から見た彼女はあくまでも俺というフィルターを通して歪められた主観の塊に過ぎず、その内実が俺の希望の通りに無謬であることを保証する現実的な頼りなど存在しないのに、そんなあやふやな偶像を崇めていったい何になるというのか。そうして擲った時間を惜しまずに済むほどの幸せを、果たしてこの道の先で得られるだろうか。絶えず情熱を注ぎ込んで燃やし続けた信念が、いつか何かの拍子に勢いを失って一息に消えて無くなってしまったとしたら、その瞬間に発生する揺り戻しの莫大な虚無に俺は耐えられるだろうか。そんな馬鹿げた疑念が、夕立の後のペトリコールのように不快な生温さを伴って足元から立ち昇り、いつの間にか俺の魂を内側からじわじわと蝕んでいた。弱気が無用な繊細さを喚起し、本来なら一顧だにせず通り過ぎればいい程度の様々な出来事にいちいち足を止めて耳を傾け、理想と現実を秤に掛けて頭を捻り、疑心と杞憂を重ねるうちに、俺の信仰心は次第に純度を失っていった。全てが終わった後でいったい何が残るのか。そのことを考えた時にふと脳裏を過るノイズのような虚しさが、いよいよ無視しきれないレベルにまで大きくなりつつあった。些か低級な言葉遊びじみた表現になってしまうが、言うなれば俺は、信じるという行為そのものを信じられなくなったのだ。誰かや何かを心から信じ、魂を預けようとする度、「そんなことをして何になる」と耳元で意地悪く囁いてくるもう一人の自分を黙らせることができなくなっていた。
自分の弱さがほとほと情けない。世に数多いるオタク達の中にこんなしょうもない事で悩んでいるやつが果たして何人いるだろうか。神を疑うなど愚かしいことだ。だが、ただ疑わずにいるのと、疑いの余地を認めたうえでなお信じることの間には、きっと大きな違いがある。理想に対して誠実でいるために、それは必要な弱さなのだと、そう自分に言い聞かせることで俺はどうにか己を保っていた。
たぶん俺は気負いすぎていたのだろう。彼女は俺にとって理想であり、希望であり、目標であり終点である。俺は彼女を追いかけると決めた。彼女はそうでなければならないし、俺はそうしなければならない。見定めたあの星が翳ることなどあってはならない。そう思い込むあまり、あの日の感動を嘘にしたくないと願う気持ちが先走りすぎたばかりに、いつしか俺は彼女に対してあまりに多くのものを仮託しすぎていたのだ。
葛藤と屈折と錯綜の末、俺は直観した。理想を追うことに疲れたのは、高く積み上げすぎたそれが崩れるのが恐ろしくなったからだ。積み重ねた理想の重みに現実の自分が耐え切れなくなったのだ。元来要領が悪いくせに欲張って、足りないキャパシティに多くのものを詰め込みすぎた。身の丈に合わないペースで運動させ続けた心の筋肉が攣りそうになっていた。ならばいったん何もかもを真っ新に還して、そこから改めて考え直さなければならない。なにかを好きになる、好きでいる、応援するという行為に、自分の中でどういった意味を持たせるべきか。俺にとって信仰とは何なのか。理想とはいったい何の謂なのか。それを見極める必要がある。その為には一種の対照実験として、もう一度あの星に真正面から向き合わねばならない。3年前のあの日と同じだけの輝きに、3年前よりも乾いた今の心で。
そのまたとない好機が、誂えたようなタイミングで俺の前に現れた。「シュークリーム☆ショータイム Vol.2~クリスマスパーティー2022~」。彼女の冠番組「内田秀のカフェでちょっとお話しませんか?」の、初となる有観客イベント。そして彼女のキャリアをして初の、特定の版権作品のタイトルを冠さず、外部の企画へのゲスト出演という形でもない、単独の主演イベントである。いわば混じり気なし、過去最高純度の内田秀を浴びることができる貴重な機会だ。俺に選択肢は無く、また迷う理由も無かった。
前置きだけで8000字近くも費やしてしまった。長々と大袈裟に言葉を弄んでみたものの、つまるところは要するに「なんかちょっと疲れた」というだけの話でしかないのだが、ともあれ斯くの如き葛藤を経て、2022年12月17日、俺は再び内田秀さんを目撃した。以下に記すのはその当日の行程の大まかな記録であり、そして同時に、俺という一人のちっぽけなオタクが懐いたある葛藤とその帰結の、現時点におけるひとまずの総括である。
12月17日の朝8時を少し回ったころ、俺は東京駅八重洲口鍛冶橋駐車場バスターミナルに降り立った。こう何度も乗っていると深夜バスの硬いシートにも慣れてくる。慣れてくること自体、癪と言えば癪ではあるのだが。凝った身体をほぐしながらトイレで歯を磨き、荷物を検め、最低限の身支度を整えてから大通りに歩み出す。イベントの開催地は銀座にあり、開演までにはまだ7時間以上の猶予があった。それにしても師走とはいえ東京はやはり暖かい。北国の苛烈な放射冷却に馴染んだ身体には意想外な風の優しさが、どこか異国情緒にも似た淡い感慨をもたらす。あまりに暖かいのでギリギリ全裸でも行けそうな気がしたが、流石にそれでは怒られてしまうので脱ぎ散らかしたい衝動をグッと堪えて、もうだいぶ見慣れてきたような、でもまだ少し落ち着かないような、郷愁と浮遊感を均等に呼び起こす不可思議な樹海めいたシティスケープの中を、待ち侘びた祭りの開幕を前にした子供のような期待と、死地に赴く戦士のような覚悟を胸にあてどもなくそぞろ歩きながら、毎度のごとく膨大な自由時間をどう消費するかについて思案を始めた。
何度も足を運んでいるくせに未だに東京という街のことをほとんど何も知らないので、俺の行動はいたってルーチン化している。まずは近場の立ち食い蕎麦屋かラーメン屋で飯を食い、しかる後にいくつかの場所を巡って時間を潰す。CDショップ、本屋、ゲーセン、公園。そんなところだ。何度足を運んでも切符の買い方と乗り換え方を憶えられない自分の鳥頭ぶりにうんざりするのにも慣れたが、だいたい東京はごちゃごちゃしすぎている。これはもう生来の性癖というか終生の宿痾みたいなもんだと思うが、俺はマジで地理が分からない。26年間住んでいる地元の地名もロクに知らないし47都道府県も全然言えない。何なら東北6県も若干怪しいくらいだ。東京の人間が山手線ゲームなるもので盛り上がっている様子が異世界の儀式か何かのように思えてならない。20個だか30個だかあるという駅の名前と位置関係を全て仔細に把握しているというのか。どういう頭してるんだ。怖すぎる。都会人じゃなくて宇宙人じゃないですか?俺なんて何回も東京に来てるくせに未だに「新宿と渋谷は近い」くらいしか分かってないですからね。終わってますね。あとJRから地下鉄への行き方も全然分からん。行き方というか、もはや生き方が分からん。物覚えの悪さ・管理能力の無さ・鬼の方向音痴の三つが黄金のトライアングルを形成し、慣れない街に行くとスマホの検索履歴がすぐこんな感じになる。
こんな感じなので、具体的にどういった行程を経て銀座までたどり着いたのかはあまり憶えていない。新宿だの渋谷だのを適当にうろついた挙句、なんか秋葉原あたりから大きな道に沿って歩き始め、どこかしらのタイミングで地下鉄に乗り込んだ気がするがさっぱり記憶にない。とにかく、数十メートル歩いてはスマホの地図を見、方向転換してまた十数メートル歩いてはスマホを見……という『はじめてのおつかい』ばりのめちゃくちゃな行程の末、俺はなんとか地下迷宮のようなメトロの構内を抜けて銀座の路地へと這い出した。それまで狭苦しい地下に押し込められていた分、階段を上り切って地上に出た瞬間の解放感たるや一入であり、新宿あたりの過密で猥雑なそれとはまるで違う、瀟洒な意匠のビルがこれでもかとばかりに軒を争って連なる壮麗な街並みに俺は圧倒され、間抜けにもしばし呆けてしまった。こんな小汚い田舎者がザギンなどという上級国民御用達のハイソな街においそれと足を踏み入れていいのか、ポリスメンに見つかったら無警告で射殺されるのではないかと肝を冷やしたりもしたがそこは流石に法治国家、あからさまにお上りさん丸出しの不細工な挙動を見咎める者もニューナンブを向けてくる者も一人としておらず、俺は拍子抜けするほどあっさりと人混みの中に紛れ込むことに成功したのだった。全然知らんし不謹慎だけど多分テロってこんな感じで起こるんだと思う。ザギンのポリスメン各位におかれましては今後このような不審者を見逃すことの無いよう、より一層の謹厳な職務意識をもって警邏活動にあたっていただきたい。よろしく。
イベントの会場は歌舞伎座タワーとかいうよく分からんがバカデカくてカッコいいビルの12階にあった。〽カブキザは歌舞伎町にはない、という歌もどこかにあったが、銀座なのになんで歌舞伎座やねん、などという悠長なツッコミがこの街に通用しないことくらいは俺もとうに弁えている。目についたつけ麺屋(行列店のようだが運よく空いていた)に飛び込んで腹ごしらえを済ませ、目的地までの順路を確認して一息つくと、途端に胸中にて獰猛なまでの勢いで膨れ上がった緊張が強く意識された。今からほんの何十分か後には、俺は内田秀さんの姿を実に3年ぶりに肉眼で目撃することになるのだ。ようやく実感が湧いてくると同時、たとえようのない不安に足元がふらつくような錯覚を覚える。昂揚や陶酔ではなく、ほとんど恐慌に近い緊張がもたらす、目眩にも似た非現実感。3年という歳月が俺の胸に穿ち抜いた空白はあまりに大きく、これから始まる時間がその虚を如何様に埋めるのか、そもそもちゃんと埋めてくれるのか、胸騒ぎが絶えなかった。彼女はどんな姿で現れて、どんなことを話すのだろうか。俺はちゃんと満足できるだろうか。胸に抱えたこの葛藤に果たして答えは出るのだろうか。ライブでも何でもそうだが、俺はこの手のイベント事に期待をし過ぎるあまり変なプレッシャーで自分を押し潰してしまう悪癖がある。今回のそれは殊更に重く、のしかかる不安を跳ね除けるべく俺はトイレの個室に駆け込んで事前に購入していた檸檬堂鬼レモン350mlを呑み干し、速やかに意識に靄をかけた。いよいよ薬中じみているが仕方ないだろうと言いたい。あらゆる意味で、こんなのシラフで乗り越えられるわけがない。ボス戦の前にバフをかけるような、あるいは手術の前に麻酔をかけるような、いずれにしてもなんともはや惨めというかおよそ正視に堪え難い、進退窮まった感のある絵面だと自分でも思うが、とにかくそうして、不穏にざわめく心を押さえつけながら、ただ時間が来るのを待った。
開演の時刻が近づき、俺はとうとう意を決して伏魔殿めいた威容でそびえる歌舞伎座タワーの門をくぐった。不気味なまでに小奇麗なフロアを通過し――俺の地元は中心街であっても背の低い薄汚れた雑居ビルばかりで、ここまで巨大かつ清潔感に溢れた建物というのは逆に尋常ではない、なにか異星の技術で建造されたオブジェのようにすら思えてしまう――エレベーターを乗り継いで12階に到達する。受付にチケットを提示して入った会場は、常であれば背広姿のおじさん達が横文字のビジネス用語をぶつけ合って喧々諤々しているであろう感じのだだっ広い会議室だった。だだっ広いと言ってもそれはあくまで会議室としての話、100席程度のパイプ椅子がみっちり並べられた空間は華やかなクリスマスパーティーの会場としては些か手狭で、一応申し訳程度にツリーなどが飾られてはいたものの、ともすれば簡素とさえ評せる印象があり、大掛かりなセットや機材に囲まれていないぶん、実際以上に”密”な空気感があった。このこぢんまりとした空間に今から内田秀さんが降臨するのか。壁際にぽつんと置かれた主役用の椅子、あそこに座るというのか。どう考えても距離が近すぎである。想像しただけで「いや、そりゃアカンやろ」という気持ちになり、「別にアカンことないやろ」というセルフツッコミも追いつかなかった。座席の位置は真ん中やや右あたりで、ほどよい距離(と言っても十二分に近すぎるくらいだが)を保ちつつ、何にも遮られることなく全体を見渡せる好ポジションである。ペンライトを振り回したり激しく踊り狂ったりする系のイベントではないから、何が起ころうとその全てが委細もれなく視界に収まるのは確実であった。絶対にやばい。やばすぎる。俺は馴染みがないので分からないが、握手会やサイン会といったイベントはどれもこんな雰囲気なのだろうか。だとしたら、心底恐ろしいと言う他はない。
クリスマス調の牧歌的なBGMがループ再生される中、俺は席に着き、配られた小さなブレスレット――ペンライトの代わりなのか、ボタンを押すと光るようになっていた――を装着し、深呼吸以外にすることがないのでひたすら深呼吸をした。興奮していたが、同時にひどく冷静だった。まったく矛盾しているが本当にそうとしか言えない。緊張というものは行くところまで行けばそういう動的な平衡に行き着くのだろう。沸騰しながら凍てついているような奇妙極まる精神状態。あらゆる感情が綯交ぜとなって飽和し、空白となった胸の内にただ一つ、来るべき時が来るという静かな確信だけがあった。俺は託宣を待ち侘びる信徒のごとき厳粛な心持で、刻一刻と迫る開演の時を待っていた。ひとつの未来を決定づける重要な命題に、解が啓示されるその瞬間を。
そうしているうちに、呆気ないほど唐突に扉が開き、そこから内田秀さんが現れた。その時、実に3年と3か月ぶりに、俺は肉眼で彼女の姿を目撃した。
か、
か、
かわいい~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
は?ちっちゃ!顔ちっっちゃ!!美少女やんけ!かわいすぎなんですけど?髪キンッキンに染めてる!超似合ってる!クリスマスっぽい服!おしゃれ!華やか!歩きながら手を振る姿もなんかキラキラしてる!腰ほっそ!お人形さんみたい!なんかもう全部かわいい!きれい!最高!好き!!うわ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
気付けば俺はマスクの下で満面のキモ・オタク・スマイルを浮かべながらピグモンのようにパタパタと手を振って彼女を出迎えていた。一秒前までウダウダ考えていたことが一つ残らず頭から吹き飛び、たった一つのシンプルな真理だけがその場を支配していた。そう、内田秀さんはかわいいのである。
彼女の声はタイムマシンだった。手を振りながら部屋に入ってきた彼女が、記憶のそれと全く変わらぬ声で「こんにちは~!」と挨拶したその時、2022年12月17日の歌舞伎座タワー12階セミナールームは瞬く間に3年と3ヶ月の時を遡り、2019年9月22日の東京カルチャーカルチャーになった。本当に、つまらないことで悩んでいた自分が笑えてしまうくらい、あの時と全く変わらない輝きがそこにあった。俺の視聴覚機能の一切は暴力的なまでの強引さで彼女に向けて固定され、他の何物をも受け付けなくなり、急速に世界が狭まったかと錯覚するような高揚感の中イベントは始まった。
アシスタントMCの補佐の下、イベントは至って円滑に進行していった。これまでの番組企画の振り返り、事前に募集したお便りに基づくアンケートやクイズコーナー。どれもこれも暖かく賑やかで、発声禁止のルールに抵触しない程度の笑い声が客席のそこかしこで絶えず弾け、彼女とファンの双方向の愛が存分に満たされる、素晴らしい時間だった。そして目玉とも言えるお歌のコーナーが終わると、ステージ上に用意されたのは譜面台。最後のサプライズとして始まったのはなんと、嗚呼なんと、彼女自らのギターによる弾き語りだったのである。俺はもう、天を仰がんばかりの心境だった。
俺はギターというものに対して複雑な想いを抱いている。一応はバンドキッズの末席を自認する身として、ステージ上で激しくギターを掻き鳴らすロックスター達の華やかな姿には人並みの畏敬や憧れを抱いているし、励ましや癒しや活力を貰った経験も数限りなくある。だが同時に、それらは俺にとって幾許かの後悔と劣等感を喚起するものでもあった。極めて個人的かつマジでしょうもないことなので詳細は省くが、かつてひどくチンケなプライドに拘泥したばかりに取りこぼしてしまった可能性というものがいくつかあり、とにかくそういう、自分自身の不徳や怠惰、幼稚さや頑迷さや後ろめたさといった恥の記憶の象徴として、ギターという楽器は俺の中でどことなく座りの悪いアンビバレントな存在感を放っていたのだった。
ここで披露された彼女の弾き語りはしかし、そんな俺のつまらない記憶の古傷などいとも容易く塗り替えてしまうものだった。曲目はYUIの「CHE.R.RY」。原曲よりもややテンポを落とし、素朴な暖かみの中に純粋抽出されたかのような甘酸っぱさが香る、それは見事なカバーだった。原曲からしてそうであるように、激しい衝動や熱量を感じさせるものはない。運指は素人目にもそうと判るほど覚束なく、時折ミスをして歌が止まる。それでも、一ヶ月程度という短い練習期間からは想像もつかないほどの闊達な演奏と歌いぶりからは、ファンのために想いを届けようという真っ直ぐな誠心と、そのために積み重ねた努力の熱量がはっきりと窺えた。それは単なる技術的な巧拙を超えた域で、俺の中の薄暗い部分に張り詰めた琴線を深く静かに揺らした。音色は優しくとも、心に一本芯を通されるようだった。またしても彼女は俺に出来なかったことをやってのけたのだ。また一つ、彼女に宝物を貰ったような、胸に輝きを灯してもらったような感じがした。
(ちなみに小生意気なバンドキッズである俺は歌い出しの時点で即座にThis is 向井秀徳を連想してしまった。そういえばどちらも名前に「秀」の字が入っている。まさか、同一人物……?)
イベントが終わり、俺は長いようで短かった時間をゆっくりと反芻して味わいながら歌舞伎座タワーを出た。胸中では名状しがたい感慨が渦を巻き、しかし同時に、不思議なほど暖かく静かに凪いだ気分だった。なんだか、変な喩えだが、初見時は勢いや驚きに圧倒されて細かな演出の機微を読み取れなかった作品をもう一度見返して理解を深められたような、そんな感覚とでも言おうか。彼女は変わることなく、ただ進んでいた。俺の目にやはり狂いはなかった。その事実が純粋に嬉しくて、俺は早くも一日が終わった様な満足感を覚えながら、少し日の傾いた銀座の街を彷徨いていた。時間にしてたった一時間半で、3年のブランクはあっさりと埋まってしまった。このまま帰ってもいいくらいだったが、しかしまだ終わりではない。おかわりがある。イベントは昼夜二部制で、この後には夜の部が待ち構えていたのだ。
夜の部のチケットを発券し、会場で座席の番号と照らし合わせて、俺は愕然とした。番号が示す位置はなんと、こともあろうに、最前列のど真ん中だったのである。最前列のど真ん中である。大事なことなので二度言いました。もっぺん言っとこ。最前列の、ど真ん中でした。すわチケットの印刷ミスか、それとも俺の眼球が狂ったのかと危惧したが、生憎そのどちらでもなかった。恐る恐る座席に着いた俺を咎める者は誰もおらず、定刻通りに夜の部が始まり、現れた彼女は当然のような顔をして俺の真正面、すぐ目の前に御来臨あそばされたのである。率直に「あ、死ぬ」と思った。こんなことがあっていいのか。彼我の距離は間に置かれた機材類を挟んでおおよそ1.5メートル、やろうと思えば直接握手だって出来ないこともないであろう一足一刀の間合いである。読者諸兄、ご想像願えるだろうか。お肌のお化粧の乗りまで窺えるほどの超至近距離で、かわいい生き物がかわいい声とかわいい身振りで喋っているのである。
これ2年前に書いた文章なんですけど、今回いきなり数メートルどころか1.5メートルですよ。急に距離詰め過ぎじゃないですか?完全に心臓止まりました。まだ動いてません。いい加減にしてください。警察呼ぶぞ。内田秀、かわいすぎ罪で現行犯逮捕!!
俺はもう、何が何だかよく分からなくなっていて、心の中でただひたすら「うわ~、うわ~」と白痴の如くに繰り返すばかりだった。真っ白な思考の中、「目が合うのが恐ろしい」という情けないチキンハートだけがなけなしの自制心として辛くも機能し、俺は極度に狼狽しつつも努めて平静を装い、不意に視線が通じ合って心臓が停まることのないよう彼女の喉元の辺りに焦点を合わせながら、彼女の肌(やわらかそうだった)や、綺麗なブロンドの髪(昼の部とは違い、側頭部におだんごを二個作っていた。かわいかった)などを一つ一つ盗み見るようにして目に焼き付けていた。その程度のことすら後ろめたさを伴ってしまうほど、彼女の佇まいは侵し難い華やかさに満ち満ちて、快活な生気がオーラとなって立ち昇るようだった。世界三大かわいい生き物、内田秀……。
夜の部は、細かな差異はあれど概ね昼の部と同じ様相で進行し、つつがなく終了した。何度も振り返って手を振りながら退場する彼女を見送り、規制に従って順番に席を立つ。広いロビーで三々五々、イベントの感想などについて早速語り合う人たちを尻目に俺は足早に下りのエレベーターに乗り込み、歌舞伎座タワーを後にした。外はすっかり暗くなり、霧のような小雨がぱらついていた。
3年ぶりに見た彼女は、装いのせいも無論あるだろうが、記憶の中の印象よりもずっと垢抜けて、洗練されて、堂々としていて、表現者として――というのはやや大袈裟かもしれない。なにしろ両部合わせての約3時間、彼女は全く気負いや演技というものを感じさせない”素”の姿で振る舞っていたのだから――完成されていた。よく通る澄んだ声、コロコロと変化する愛らしい表情、進行の段取りも実にこなれていたし、視聴者メールへの反応やアシスタントMCとのやり取りは見事に軽妙なボケとツッコミの体を成していて、客席からは終始笑いが絶えることがなかった(新人店員の山田さん、本当にGJでした)。生の歌唱やギターの弾き語りも、観客との距離の近さ故にいくぶん緊張が見て取れたものの、総合的には随分と堂に入ったものだったし、時折ミスをした際の「エヘヘッ♡」という照れ隠しの微笑は毎度ながら心臓を撃ち抜かれる可憐さだった。声優として、タレントとして、ある種のアイドルとして、驕りも衒いも不足もなく、求められるものを全て出し切り、さりとてこちらに阿ったり、気を遣わせたりするようなこともなく、ただ飾らないありのままの姿で観客を魅了していた。そうさせるだけの空気というものが自ずと出来上がっていた。それは紛うことなく彼女が積み重ねてきた努力と持ち前の人徳の成せる業であり、3年という歳月の中で我々ファンと彼女との間に築き上げられた、揺るぎない信頼の形に他ならなかった。俺が泥濘を這いずり回っている間にも、彼女は確かに歩みを進めていたのだ。
ひとつの示唆として、イベント内で発表された「秀ちゃん大好きだランキング!」(彼女のどこが魅力であるかについて、ファンの投票を計上しランキング形式でまとめたもの)のうち、彼女のセールスポイントである「語学力」はランク外で、上位を占めていたのは「努力家」「優しい」「行動力がすごい」など、人格面への評価が主であった。まあファンの投票なんだからそうなるのは当たり前っちゃ当たり前なんだが、我々は彼女が語学堪能だから、優秀だから好きになったのではない。数値化できるスペックではなく、その能力と自負を築き上げてきた弛まぬ努力の道筋にこそ、シュモエド達は心から魅入られ、惜しみない尊崇と憧憬を捧げてきたのだ。それがみんなの共通認識として伝わっていたことが素直に嬉しかった。ちなみにランキングの第1位は「笑顔」でした。本当にそうだと思います。内田秀の笑顔は宇宙の至宝です。
そうした事実を目の当たりにして、俺の胸に当初懸念していた惨めさや羨望などの後ろ暗く湿った感情は、断言していいが一欠片も生じなかった。ただ彼女を信じ続けてきて良かったと心から思えるような、どこか清々しさや晴れがましさすら伴う満足感だけがあった。冷たく乾いて罅割れた心に暖かく染み入るような、どこまでも真っ直ぐで純な輝き。そうだ、俺はあの星を追いかけてここまで来たのだ。悩み迷うことはあっても、後悔したことは一度もなかった。ならばきっと、この道を選んだことは間違いなんかじゃなかったし、これからもそうだと胸を張って言い切れるだろう。その選択が今までの3年間に点々と灯してくれた、宝石のような記憶をひとつひとつ思い起こしながら、俺は雨の降る中をゆっくりと帰路に就いた。心が静かに弾んでいた。
歩きながらふと思い出す。そういえば、3年前のあの夜も雨が降っていた。あの時の俺は、帰りのバスの発車時刻に間に合わせるために、彼女の挨拶を最後まで聞くことなく席を立ったのだ。傘を差すのももどかしく、バスの発着場まで息せき切って走っていく間、全身を打つ雨がまるで自分の涙のように感じられたのを今も憶えている。この夜は違った。ちゃんと最後まで挨拶を聞けたし、俺にはもう傘があった。アスファルトをしっとりと濡らす雨も、眼鏡についた水滴に乱反射してぼやける街の明かりも、昼間より少し冷たくなった空気でさえも、ささやかな祈りの成就を遠巻きに見守るように、どこか優しく柔らかな質感を帯びていた。錯覚だったかもしれないが、俺はそう思うことにした。
その後に関しては特に語るべきことはない。夜行バスに乗り、お尻の痛みにうなされながら一晩かけてクソ田舎に帰り着き、ラーメンを食べてから家に帰ってぐっすり寝た。3年前と違ったのは、夢のような時間が終わってしまった寂しさよりも、あの場に居られた純粋な嬉しさの方がずっと勝っていたことだった。本当に、もうつまらないことを気にしなくてもいいのだと言ってもらえたような気がした。
皮肉と言えばあまりに皮肉だが、心の距離が少しばかり離れたことで、俺は却って彼女のことを落ち着いて見られるようになった。適切な間合いが掴めたと言うべきか。信仰でも執着でも強迫でもなく、純粋に一人の人間として、彼女のことを改めて知り、応援できるようになった――そんな気がしている。あの頃の胸を焦がすような熱はもう薄れて久しく、そのことに寂しさを覚えないと言えばもちろん嘘にはなるが、しかし想い出なるものは存外に脆く、曖昧で、現在の精神状態によって良かれ悪しかれいくらでも補正がかかってしまうものだ。もう気負いすぎることはない。どれだけブレても歪んでも、骨子にあるものは決して変わらない。一生追いかけると決めた、その誓いは変わらずこの胸にある。俺はきっと、これからも彼女のことを好きでいられるだろう。
「何もなくなりゃしないのさ/形が変わっていくだけさ」という、敬愛する詩人の言葉を思い出した。「あれだけ染み込ませたなら/一つのアトムとして/俺の何もかもに紛れ込んで/生きていけると思うとしよう」という、大好きなロックバンドの言葉を思い出した。きっとそうだ。俺があの日に受け取った感動も、彼女の輝きもかわいさも、形は変われど消えることなく、この魂の奥底に深く染み込んで、何一つ損なわれないままそこに在り続けている。俺はそう信じる。彼女は今も確かにそこに居てくれているのだ。ならばそれ以上に何を望むことがあるだろうか。どのみち、やるべきことは変わらないのだ。
地を這う俗人の懊悩など歯牙にも掛けず、星は天頂にて輝き続ける。その光は前方しか照らしてくれない。泣けど喚けど、退路はとうの昔に断たれている。たとえ届かないと分かり切っていたとしても、俺は死ぬまで進み続けるしかないのだ。その事実を、少なくとも今はまだ、重荷だとは思いたくない。
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