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狂ってる

助けてほしい。

気付けば上京して一年以上経っていた。月並みな感想だが本当にあっという間だった。労働を始めてからというものビビり散らかすぐらい時間の感覚が速くなった。よくある、30代になるとあっという間に身体にガタが来て~とか、えっ?あの作品がもう○年前!?とか、そういう歳月の流れとそれに付随するあれやこれやを憂いたり懐かしんだりする感覚、俺はああいうのを結構好ましく思っている。なぜかと言えば昔からこんなにもクソおもんない人生いつまで続くねんとうんざりしていたのだが完全に発狂する前にちゃんと終わってくれそうに思えて安心するからだ。もう全てに飽きている。理由は分からないが、いつからか何もかもが嫌になり、何の気力も湧いてこなくなった。あんなに熱中していた諸々の趣味も全くやる気がなくなり、休日はひたすら天井を見つめるだけの肉塊と化している。せっかく人から貰ったギターも全然触れてない。Gコード以外全部忘れた。仕事も嫌すぎて会社に居るだけでめちゃめちゃお腹が下るようになった。今すぐ辞めたい、というか辞める予定だから別にいいけど。もちろん更新ペースからして言うに及ばないだろうがこの腐れブログを書くのにも飽き飽きしています。あと何個か前の記事で上京してからというもの暇さえあれば読書してるンゴと書いたがあれは完全な嘘です。イキり散らかしました。正確に言えば読書はしているのだが、既に読んだことのある本しか読んでいない。新しいものをインプットする気力がまるでない。youtubeに違法アップされてる水曜どうでしょうを見て笑うくらいは出来るが、笑っても楽しくない。何も楽しくない。一秒でも早く全てが終わってほしい。

新宿の路上は汚い。何度も轢かれてペラペラになった空き缶、変圧器の上に捨て置かれたカップ麺の容器、排水溝にねじ込まれた吸い殻、電柱の根本で干乾びた吐瀉物。街という巨大な生き物の表皮から擦り出た垢。それら全てが人いきれに蒸されて、得体の知れない瘴気を立ち昇らせている。辛気臭い顔のサラリーマン、手を繋いで道を塞ぐカップル、改札前で立ち止まる観光客。全員殺したい。いい人も悪い人もそれ以外の人も。電車に乗っている時はなるべく窓の外の景色を眺めるようにしているが、ずっと眺めてるとすぐ酔うし、脳の多動が鎮まらないのでついスマホに手が伸びてしまう。SNSは汚穢の坩堝だ。消しても消しても湧いて出る広告、見るに堪えない愚痴とヘイト、気色の悪い定型文でしか会話できないオタク、くだらない数字の上げ下げについて賢しらに講釈を垂れるインフルエンサー共。一人残らず殺してやりたい。トー横広場に俗物共の屍を積み上げて、その山の上で声の限りに叫びたい。不本意な付き合いで食わされる値段だけは一丁前のよく分からんコース料理なんぞより、好きな人と食べるサイゼリヤの方が一兆倍美味いのだと。それ以外の真理などこの世に必要ないのだと。

人間の声を聞きたくないので、最近はインストゥルメンタルの音楽を聴くことが増えた。それもなるだけ単調で暖かみのないやつを。静寂にも喧噪にも耐えられない。意味のある情報を何も摂取したくない。何も受け付けない。他人のことも、社会のことも、政治のことも経済のことも、全く頭に入れたくないし入ってこない。それを怠惰だと世界は言う。自分ひとりのことすらまともにこなせない、俺みたいな出来損ないのゴミクズに、真っ当に生きて他者と関われだなんて、どうしてそんなひどいことを要求してくるのか。虫に喋れと言っているようなものだ。

実家から近くて偏差値的にもちょうど良さそうだから、という全く理由とも呼べないような不真面目な理由で選んだ、大したネームバリューもない三流大学をどうにか5年かけて卒業したわけだが、しかし仮にもっと上等な、名前だけで世間から一目置かれるくらいの有名大学を出ていたとしても、あるいは逆に大学なんか出ていなかったとしても、自分は今と変わらない無能で怠惰な社会のゴミに成り果てていただろうと言い切れる自信が俺にはある。いっそ揺るぎない自負と称していい。もっと言えば社会が今のように不景気で学歴偏重で、ただ一度の失敗も許さない狭量さや抜け駆けを認めない出る杭メッタ打ち精神の充満した不寛容な閉塞社会でなく、もっと未来への希望や輝かしい可能性に満ち満ちた住み良い世の中であったとしても、やはり俺の生き方は今と変わらなかっただろうと断言できる。正直、俺の中に社会への怒りや恨みつらみと呼べるような感情はあまりない。いや、もちろん全く無いわけではないが、それももはや恨んだところでどうにもなるまいという失望を通り越した諦観、あるいは捨て鉢めいたニヒリズムの色合いが濃く、建設的な問題意識としての精度を保っているとは到底言い難い。そもそも俺ぐらいの世代からすれば生まれてから今までず~~っとうっすら不景気で、今もなお年経るごとに世相は右肩下がりに悪くなり続けてるわけだし、世の中とは、人生とはそもそもこういうものなのだという無常観ならぬ無情観が一種の前提として骨身の奥底に深く刻み込まれているのでそこらへんのあれこれはもうシンプルにどうでもいいのだ。少なくとも俺個人が現在陥っている苦境の原因は九割方が俺自身の性情に起因しているのだからそこで他人や社会に責を求めるのはお門違いだというどこか後ろめたさを伴う認識がやはり大勢を占めている。アラスカに生まれようがフロリダに生まれようが、100年前だろうが1000年後だろうが、俺は俺である限り必ずこうなっていただろう。だから糾したい理不尽があるとすれば、いったい何故、俺は俺以外に生まれることが出来なかったのかと、それだけだ。

「人は独りでは生きられない」というクリシェの意味を考える。諸般の事情により俺はもう今後一生幸せになれないことが確定しているので誰とも繋がるつもりはないのだが、世間というやつはそれをひどく異常なことのように糾弾してくる。いや、実際に直接言われたわけじゃないけど、だいたいそういう風潮が蔓延していることは肌で解る。しかし、では俺はいったい何なのだろう。人と繋がることを拒む俺は、人じゃないんだろうか。頭がおかしいんだろうか。周りと同じことに興味が持てない、興味の無いことに手を付けられないというのはそんなにも異常なことなんだろうか。俺にとっては凄まじい苦痛であるそれに大多数の人間が従事することを当然の前提として今の社会や共同体の仕組みが成り立っているのなら、俺にはそれこそ狂気の沙汰としか思えないのだが、それに参画できないこちらの方が社会不適合者ということになるのだろうか。まともに動作しない初期不良品のくせに、外面だけ整えて出荷されてしまったんだろうか。

実のところ俺は大して辛い目に遭っているわけではない。むしろ世間的にはかなり恵まれている方だと言っていいだろう。取り立てて瑕疵があるわけでもないごく普通の中流家庭に生まれ育ち、三流とはいえ大学にまで行かせてもらった。いじめや大きな挫折なんかを経験したこともないし、持病も障害も借金もトラウマもない。にもかかわらず、気付けば俺の魂にはびっしりと黴が生えてしまっていた。普通に毎晩酒を飲んでヘラヘラできてるから別に鬱病とかでもないはずだが、何もかもしんどいし面倒くさいし不安だし明日死ぬならそれでいいという思いが消えない。全然辛くないはずなのに、ことあるごとに簡単に打ちひしがれて、一丁前に辛そうな振りをしてみせる自分が忌まわしい。誰にも合わせる顔がない。この世のあらゆる悲劇と悪徳は、俺が無能の根性なしだという一つの事実だけで説明できる気がする。足掻くことすら分不相応に思える。現状の全てを自分の愚かさに対する罰として受け止めることしか、俺には許されていないのだと思う。

あなたは一人じゃないんだよ、とか、どんな時でもわたしがそばにいるよ、みたいなやつ、俺はひとつも信じていない。なぜって、普通に嘘だから。現に一人じゃん俺。いないじゃん、誰も俺のそばに。「一人じゃないから頑張れる」は、どこまで行っても「一人では頑張れない」の裏返しでしかない。どれだけ綺麗事を並べ立てようと、決して他者と共有できない孤独を抱えた人間はごまんといるわけで、この手のおためごかしは結局「ここまではセーフでここからはアウト」のラインを上げたり下げたりしてるだけに過ぎない。そんな線引き自体がそもそもクソ喰らえだと、貧しくても寂しくてもおかしくても惨めでも孤独でも構わないんだと、そう言ってほしかったのだ。俺は。もう遅いけど。

現実を変えたいわけじゃない。自分も世界も、もうこれ以上どうにもならない。それくらいは弁えている。ただ、自虐や諧謔の類ではなく、本当の意味で、俺みたいな人間は生まれてこない方が良かったんだと思う。俺は虫のように生きて死ぬべきだった。こんな低劣な人間に、想う心や理性などは過ぎた代物だった。何も考えず、喰って出して寝る、生理反射の繰り返しだけであっさり満ち足りておくべきだったのだ。でもそれはもう叶わない。それで終わらせるには、あまりにも多くのものに、あまりにも強く焦がれすぎた。絶対に届かないものに憧れてしまった人生は、もうそれ以降、進んでも退いても地獄でしかないことが確定している。俺はいったいどうすればいいんだろう。助けてほしい。本当に助けてほしい。全てが終わるその日を待ちながら、そんなことばかりを考えている。



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