ブラジルでの父の軌跡を辿って、自分探し(2)
ブラジルへの道
長い間準備していたにもかかわらず、出発当日のテンションは低かった。低気圧に影響されやすい体質であることはわかっていたけど、妻を家に残して一人でブラジルだなんて。アラフィフにもなって自分探しとはなんだよ、って自分に突っ込んで、何ともネガティブな心持ちだった。低気圧にはめっぽう弱い。そして長時間の旅になることに発つ前からうんざりしていたのかもしれない。
行きはまず、韓国の仁川空港に寄り、エチオピアのアディスアベバ、そしてサン・パウロ空港へと向かう。仁川空港では、ただ乗り換えるだけというのに、ゲートを出て空港内をぐるーっと回って、セキュリティ検査を受けてまた戻ってくるという、どうにも無駄に思えるプロセスを経た。自分は元の飛行機に戻ってくるものと勘違いして、荷物を一部置いてきそうになったが、そうしなくて良かった。同じ機体ではなかったようだ。そして韓国までは空いていたが、そこからエチオピアまではほぼ満席だった。エチオピアまでは12時間ほどかかった。そこでかなりの待ち時間があったのち、さらに10時間以上のフライト。今回、一番失敗したなぁと思ったのは、全部一生懸命窓際の席を取ってしまったが、一人旅で、長時間のフライト、そして3人席だと、とにかく、出られないということ。横の二人が同時に起きていることはまずないし、なかなか気まずい。トイレを10時間我慢した時の苦痛は相当だった。飛行機特有の低気圧による頭痛、身体が消化リズムを整えられず腹痛も、僕の場合、なぜか歯痛も来る。事前に歯医者には行っていたので、虫歯による痛みではなかったのだが。それでも、映画は随分たくさん観た。5本も観れば飽き飽きするけどね。
サン・パウロ/サントス
まずは空港近くに泊まって、翌日レンタカーして最初に、かつて入国審査等をしたはずの場所、その昔移民たちが一時的に収容された場所(移民博物館)に行った。そこで、父の入国記録を見つけようと思ったが、時間もあまりかけられず、それはあまりこだわることなく諦めた。後になって、入国審査の記録自体は、当時父が最初に寄ったリオ・デ・ジャネイロでの記録を発見した。だからサン・パウロでは時間をかけても見つからなかったかもしれない。そして、その後、すぐ近くで、写真にもあったサン・パウロ聖堂へ。サン・パウロの中心街。ここは治安がもっとも悪いところの一つ。なるべく粗末な格好をして、一眼レフは持ち歩かず、携帯もiPhoneではなく古いアンドロイドのものを携行する。そして、リサーチでなかなか最後まで場所を特定できなかったサン・パウロ聖堂へ。特定できなかった大きな理由は、その昔この聖堂にはまだ二つの塔が完成されていなかったからである。なので、現在の写真と比べるとどうしても異なっていて、特定できなかったのだ。歴史を調べてやっとわかった。
でも、まず、父が1956年に来たこの場所に立っていることは感慨深いものがあった。あー、本当にやってきたんだ、という実感が沸いた。
そして、今度はサントスへ車で移動。1955年12月にまず父はリオ・デ・ジャネイロで入国はしたものの、最終到着地はサントス港だった。そこに残されていた、写真のサントス聖堂にも寄ってみた。
ある意味、63年も経っているのに、同じような風景が街に残っているというのは驚きである。ただ、教会以外は大きく変わっているのかもしれない。聖堂の中に入るとその美しさに息をのむ。人々の信仰の表れを感じた。