『他人に対する過度な厳しさこそ、自分に対する甘えである』『人にばかり厳しくして非難して中傷するような輩はただ心が狭いだけである』『他人の弱さを責める奴は自分の弱さを自覚してないだけだ』『偉そうに人を不当に非難や中傷する人は善良ではないし偉くもない』等
やたら他人の事ばかり「女々しい」とか「情けない」とか「ヘタレ」とか「甘えている」とか「逃げている」とか言って謗る、中傷するような輩が多くて困りモノではあるが、皆さんは如何お考えだろうか?
それなら仕舞いには生きて行く事が何でもかんでも女々しいと言う事になりそうではないか?
下手すれば、死者、自殺者が、一番、勇敢で男らしい、また最高人格者って言えば手っ取り早いのでは?
と考えてしまいそうな次第でもあった。
先ず、男らしい男や女らしい女、しっかりした性格の人間はいたとしても、完璧な人間はいませんし、他人の事ばかりケチを付けたり根拠無く中傷するのは簡単だ。
如何程に勇敢で、強く逞しく自身にストイックな世界一の格闘王者でも臆病な一面がある位である。
なら真面目努力家な人や、弱者に優しい人や、努力して良い結果を出すような人達は皆、「批判される事を恐れているヘタレ」、
「根暗」、「偽善者」、「裏でネチネチしているんじゃないのか。」「何でも上手く出来過ぎていて生意気だ」
等と、ほんの一部のおかしな連中からは不当な中傷を受けるのが宿命なのか?
人間は生まれついてなら、
男らしくも女らしくもなく、
男らしい人はやはり、最初は諭されて、
努力して男らしくなっているものだ。
なら男らしい人に、
「お前みたいに男らしい奴ほど、周りから、女々しいとか情けないとか謗られる事を恐れて、努力して男らしくなっているのだから、本当は女々しいんだ。」
とか言って中傷したり罵ったり、
女々しい人に
「君みたいに女々しい者ほど、周りから、女々しいとか情けないとか謗られる事を厭わずに堂々と女々しくなっているのだから、本当は男らしくて逞しく勇ましいんだぜ。」
とか言って誉めるような事をすれば、
それが一番、手っ取り早い話になる筈ではないか?
また、勇敢な人に
「お前みたいに勇気を出す奴ほど、周りから臆病とか弱虫とか謗られる事を恐れて勇気を出しているのだから、本当は臆病で弱虫でヘタレなんだよ。」
とか言って不当に中傷したり、
明らかに臆病で弱虫な人に
「君みたいに、弱虫で臆病な人ほど、周りから謗られる事を厭わずに、堂々と臆病、弱虫になっているのだから、本当は勇敢なんだぜ。」
とか言って不当に誉めたりするのか?
ならそれがそれで一番手っ取り早いように見えるものか?
元々、生きると言うのは色々と面倒臭いものだ。
でも面倒臭いから面白いのかも知れない。
人にばかり厳しくして非難して中傷するような輩はただ心が狭いだけである。
他人に対する過度な厳しさは自分に対する甘えである。
心の弱さなんて誰にでもある。それを誤魔化す事や我慢する事が前提で、それをしない事を否定して、弱さを見せた人を責めるのは人を思いやる気持ちが無いからである。
そんな心が狭い輩に限って、
自分より立場が上の奴とか好みの異性等の気に入られたい奴は誉めまくる。
結局のところ何が良くて何が悪いかじゃなくて、相手にどう思われたいか、どう思わせたいかだけの問題だ。
嫌いな人や面倒臭いと思う人には好かれなくても良いし、不愉快な思いをさせたいから厳しくして理不尽に誹謗中傷するだけの事。
言っている事が間違いでなければ正しく善良な訳ではない。
偉そうに人を非難や中傷する人は、善良ではないし、偉くもない。
他人の弱さを責める奴は自分の弱さを自覚してないだけだ。
他人に厳しく非難や中傷する人間の目線で考えてみたり、
非難や中傷する人を駄目な人と言う厳しい見方をして否定的に考えてみたりすると、とてもシンプルだ。
生きるとは確かに面倒臭いものではあるが、
偉そうにする人の本質に気が付いたら多少は面倒臭くなくなる。
私はこれからも、何を言われようが動じない自分でいたいと思っている。
女々しいも男らしいも人によって基準は違うし、大体他人に言いたい放題好き勝手言っている人は、自分が言われたくなくて先に相手を攻撃しているのかな?
と言う事だ。
それにそう言う事を言う人は他人に自分のコンプレックスを重ねているだけだから、あぁこの人はこういうことに悩んでいるのかぁって思い、出来るだけ話は聞き流している。
勿論、理不尽な事を言われればイラッとする事もあるが、言い返したら相手と同じレベルまで落ちるので同じ土俵には立たなくて良いだろうと。
一番は、相手の言葉に一々左右されない自分の軸を持つ事だと思う。