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バイオダイナミック農法のアルケミ― (聖なる農業 第二章の4:火)               Sacred Agriculture         ーAlchemy of Biodynamics by Dennis Klocek より


第二章 〖物質の変容〗の4:火 

現象と非現象

ここで確認したいのですが、地、水、空気、火、アカーシャはすべて錬金術の暗号であって、通常”火”や”水”と言われて人々が思い浮かべるような意味ではないのです。火のすべての形態、空気のすべての形態、水のすべての形態を含むのです。これらの言葉は、普遍的な原型的プロセスとしての元素界を示しています。普遍的な原型的プロセスとしての地は、顕現のプロセスです。顕現するものは地なのです。顕現のプロセスとしての地は動詞の性質を持っています。地の元素では、物事は空間と時間の中に現れます。地が霊にすることは、霊を空間と時間の中に出現させることなのです。あなたが地球に来たとき、あなたは大地に身を包んで現れた霊です。そうでなければ、ただあるだけで、その存在は明らかにされないのです。したがって、錬金術師にとって地の要素とは、思考であれ、胎児であれ、岩であれ、氷の結晶であれ、顕現しようとするあらゆるものを表します。

つまり、錬金術的には、水は凍れば地の性質を現し始めますが、溶けている時は、水のプロセスに参加しています。それは完全な顕現から離れ、顕現の代わりに変容と変化を表します。その変容のもとにあるのは、水がすべてを映して造形するという事実です。触れたものを何でも受けとめ、それに変容するのです。これは、水という元素的プロセスは、顕在化したもののジェスチャーを内在的に受け取り、変容させるという性質を持っているからです。顕在化していないものはすべて、顕在化することを切望します。顕在化しているものはすべて、再び潜在化することに憧れます。これが”人間である”ということなのです。レオナルド・ダヴィンチは言いました。「おお人よ、彼らは一生を死に向かって急ぐことに費やしている。」

顕在化したものは顕在しなくなることを切望しており、秘教的な言葉で言えば、その第一歩は “緩める”ことです。研究室での化学的手順であれ、私たちの瞑想的実践であれ、現状から緩めるのが最初の段階です。私たちの内面生活において”緩める”とは、瞑想の行為を通じて、日常的、常識的な意識から自分を解放することを意味します。私たちは瞑想を通じて、肉体、生命体、魂体等の繋がりを緩め、切り離し、真の自己を吸収し易くします。アルケミストは、そのような実践を試み、確立していく過程を水、あるいは”緩める”と言います。

存在の場全体はパターン化されていますが、ある部分は顕在化しており、ある部分は顕在化していません。それは ”あるがまま”なのです。私たちは混沌(カオス)の中では、そこにパターンなどなく、ある種狂っているという感覚を持ちます。しかし、混沌にパターンがないわけではないのです。すべての可能性は混沌に含まれていますが、それらはすべて潜在しているのです。ここ、宇宙の顕在側では、私は財布を後ろポケットに入れておきたいし、混沌は少し頼りなく感じます。しかし、宇宙にとっては、それこそがすべてを成し遂げる唯一の方法なのです。錬金術の考え方では、霊界にはすべてのものが潜在性として存在します。万物の原型が潜在的に存在する領域は、プレロマ(Pleroma)と呼ばれます。この言葉は”完全(Fullness)”を意味します。あるいはエンテレケア(Entelechy)とも呼ばれます。これは原型が顕現はせずに、パターン化された状態で存在する領域です。

これはプラトンや7人の聖なるリ-シ-にまでさかのぼります。人々が実際に地上にいながらも、地上よりももっと霊界に生きていた頃の世界観にさかのぼるのです。プレロマとは、顕現を生み出すために途方もなく熟している、総てを含んだ混沌のことです。だから、私が地から水に向かうとき、水は顕在的な地を緩め、地は再びプレロマへと開くのです。地はパターンを受け取るために開きますが、水の元素は原型のカオス構造の一部であるため、水の元素がパターンを作る訳ではないのです。全てのものは完全にパターン化されています。岩石はパターン化され、水はパターン化され、空気はパターン化され、火はパターン化されています。もっとも、これらは原型であって顕現はしていないのです。このような区別は理解しにくいものですが、これが分子引力の考えの源なのです。

「外へ行って、生物分類上の種(Species)を持ってきてください」と言われても、そんなことはできません。なぜなら、種とは霊的な存在であり、完全に組織化されていますが、顕在化はしていないのです。つまり水から空気へ移るということは、さらに深く緩み、顕在化から遠く離れて遥かな周辺にあるということなのです。空気には重さがあることを、ラヴォアジエがずっと以前に証明しています。酸化によって金属の重さは変わります。金属が燃えると重くなるのです。この考えは、数百年にわたる錬金術の歴史を覆しました。

錬金術的には、元素界のもう一方の側にエーテル界があります。火は顕現界と非顕現界を隔てる炎の扉です。この図を見ると、元素の側に火があり、エーテルの側には熱があります。重要なのは、顕現していないというのは秩序がないことを意味しないということです。このことを言い続けなければならないのは、現象の背後にある知性は見えませんが、知性を持つ存在から顕現しているということを理解する必要があるからです。それは構造化され、秩序づけられており、未顕現の領域から出現するときには、すでに幾層も組織立って構成されているのです。世界現象の背後にある顕現していない組織の一部として、元素的存在たちは低次の霊的意識です。この霊的序列は、池に住む元素的存在から、世界を創造する高貴な存在にまで上っていきますが、彼らはすべて繋がっています。元素的存在たちは高次の霊的存在たちの子どもたちなのだと、ルドルフ・シュタイナーは説明します。

人間には、顕現しているものは、その裏にいる元素的存在たちと別のものだと信じる根深い習慣があります。自分の鉛筆は自分ではないと知覚する、これは知覚の癖なのです。科学は、鉛筆の粒子と粒子の間には物質以上に空間があると言うのですが、それは鉛筆と指に言ってくれってなもんです。つまり、現代科学の到達点では、力の場には作用があり、秩序があり、宇宙における実際の物質の量は、私たちが考えているよりもずっと少ないと認識するに至っています。だから、あなたの鉛筆が顕在的に見えるのは、実際には目に見えない非常に強い力の場に埋め込まれているからなのです。

これは普通の科学の話です。アインシュタインです。私たちは場の意識について話せる時代に生きています。場の特性によって、あなたの携帯電話は機能し、場の特性のために電波塔が配置されています。私たちの場の意識は、顕在的なものから非顕在的なものにまで広がっています。場の特性において、顕現しているものと顕現していないものは、顕現していないものから顕現しているものが現出する線で繋がっています。私たちの仕事は、どのようにそれが起きているかを、比喩を作り上げることで、見極めることです。これを自在な内的表象の能力によって、目覚めた意識の中でするのです。そして、目に見えないものが見えるものに変わる、その現出の線が心に描けたと思ったら、今度はその表象を溶かして眠りに持ち込む練習をするのです。原型が現出の線に沿って顕在化しようと望むように、私の内なる表象が動いているかどうかを確かめる実験として、これを行うのです。

この数行で私が述べたことが、人智学における薔薇十字活動の根幹です。私は、ある現象がどのような過程を経て出現するのか、自然界に類似した内的表象を見つけなければなりません。私はその内的表象を操作して、その現象が発展していく様子を心の目で見るのです。そして寝る前に、その内的表象を溶かして霊界に送り込みます。その表象が溶けていく時、沈黙に耳を澄まします。朝を待って、目に見える世界の誰かが、件の表象に係わることを私に話しかけてくるかどうかを確かめるのです。その人は私の表象に係わることを話しているとは思いもよらないのが理想です。しかし、これを習慣として定着させれば、彼らが私の表象について語っていることがわかるようになります。というのも、私はその表象を何とか自分で信じ込まないように取り組んでいるのだからです。これが次のトピックです。どうやって、自己の思い込みを避けて、安全に現象と非現象の間の橋を渡ることができるかについてです。

現象から非現象へ、あるいはその逆へ行くにせよ、それができるのは私たちの生得権です。しかし、それはクラリネットの練習のようなもので、たくさん練習しなければいい結果にはなりません。100分の1秒で5000件の検索がヒットするグーグル的な意識でいると問題です。自分たちが宇宙の中心であるという現象界的な信念で、思ったことがそうであると信じてしまうのです。これが敵対者が私たちを破滅に導こうとする入り口です。それは人間の意識を巡る戦いなのです。他の誰かからメッセージが来るのを待つことができれば、そこにキリストが関わってくれていることがわかるのです。もし私が自分自身で答えを導き出すことで満足していたら、自分に都合よく作り話をしているのではないと確信することはできません。

私は普段、誰から自分のミスを学ぶでしょうか?自分自身から?、、、ではないでしょう。たいていは他の人が指摘してくれます。他人は、自己の幻想に対する最大のチェック役です。他の人たちが、私たちが人生の使命に向かって舵を取るのを助けるために、霊性の火を提供してくれるのです。今日、私たちは火の時代に生きています。物事が急速に変化しているため、自分たちが持っていると思っていた答えが、実は一時的なものでしかなかったことを人々が発見するにつれて、過去からの多くの伝統が生まれ変わっています。霊的な変化の炎が、古い信念や思想体系をすべて焼き尽くし、その蒸気だけが前へ運ばれ、残りは堆肥にされていきます。過去からもたらされた霊的な考えや実践は、すべて未来に引き継ぐ必要があるわけではありません。しかし、過去に実践されたことはすべて、見直しのために引き出され、坩堝に入れられる必要があります。人類全体が火の時代にいるのだからです。過去から持ち越された信念構造の蒸気は、かつての本質的な真実を担っています。過去からの真実のエッセンスはあり続けますが、それは引き出されて、浄化され、未来の要求と調和させなければなりません。これらの過去の実践の浄化が、錬金術における火なのです。

調理と破壊

錬金術的な火の原理には、2つの根源的でつながりのある動作があります。ひとつは調理で、もうひとつは破壊で す。調理は、別々のものがより親密になると起こる現象です。私がスープを作るとき、ニンジン、ジャガイモ、水を一緒に入れて火にかけると、ニンジンはジャガイモとより親密になり、どちらも水とより親しくなります。それが調理であり、火の持つ温和な一面です。しかし、もし私が意識を働かせず、スープを火にかけ続けると、マザー・カリ(Kali)が現れてこう言うでしょう。「あー何てことかしら、あなたは浮力を追い払ってしまっているようね。水はどこかに行ってしまい、ジャガイモともニンジンとも呼べない、とても原初的な炭素が残るわよ。」これが元素としての火の破壊的側面です。火にはこのような二面性があります。調理の側面は存在たちを境界の門へと導き、破壊の側面は門の向こうへ押しやります。調理の火によって門まで導かれると、すべてがより親密になります。この火の時代、私たちは皆この門をくぐり抜けるよう導かれているのです。皆が小さな星に生きていることに気付き始めています。携帯電話を取り出しブダペストに電話をかけるのも、簡単です。意識が変化しています。何かが変わり、私たちは皆、テクノロジーという調理の火によって、ずっと親密になったのです。

すべてがより親密になっていけるのですが、それは同時に破壊の側面を伴っています。調理はやがて向こう側へと進み、そこでは物事は燃焼するのです。現在、世界中の独裁者たちは、携帯電話の破壊的な側面を発見しています。携帯電話で彼女と話すのはクールですが、もしあなたが独裁者なら、人々が連絡を取り合って、政権を窮地に追い込まないように、軍にすべての電波塔を停止させるかも知れません。これが火の性質です。いつまでも都合がいいとは限りません。

火は二つの世界をつなぐ境界の閾(しきい)です。鉱物の領域でこれを見ることができるのは、宝石の形成においてです。そこでは金属の性質と鉱物の性質が非常に親密になり、大きな変容の力が生まれます。鉱物の中では、水と空気が宝石や鉱物の劈開面の構造を支えています。しかし、溶液中の金属は常に流動しており、珪酸塩の中にあらゆる種類の変化を生み出しています。溶液中の様々な金属によって、いろんな種類の宝石がマグマから生まれます。錬金術的には、金属は独自の火と流れを持つ鉱物の一種です。金属は延性、可鍛性、電導性があり、岩石よりも”生きて”います。土壌中では、カリウムやマグネシウムなどの溶液金属は、さまざまな程度で、植物の樹液に火の力を与えます。その金属のコアギュラの程度とソルベの程度の関係によって、その火はさまざまな度合いの変容を齎すのです。鉛から金への変容も、火の作用によるものです。それぞれの金属は、ソルベとコアギュラの関係が異なります。例えば、鉛はソルベに、つまり火に非常に影響されやすいのです。

だからアルケミストは、「金を精製するよりも金を作る方が簡単だ 」と言うのです。つまり、まず池の底の沈殿物を取り出して、火にかければ、火は沈殿物を水に変え、次に空気に変え、そして火そのものに変えます。これが変容の技の鍵であり、あなたの堆肥の山で起きていることです。廃棄物を集め、火を通して、金に変えるのです。廃棄物の山で、最初に起こるのは何でしょうか?暖かくなります。熱源は何でしょう?尿素化合物に含まれる窒素を消化する微生物の代謝速度だと言いますか?まあ、確かにそうですが、根本的には火なのです。物を積み上げるだけで、四大元素の曼荼羅が活発になり、地から水へ、そして空気へと移り、火に至ります。何かを作り上げる度に、それは固定されたものだと思っていたのに、突然、別のものになるのです。あなたが何かを固定したと言うのは、宇宙に向かって、「これに関しては、あなたは何もできないと思いますよ。」と言っているのと同じだからです。すると宇宙はこう答えるのです。「やあ、坊や、じゃあこれはどうかな、、、ほら!」

四元素の曼荼羅は、固定状態から流動状態、溶解状態、そして燃焼へと移行する普遍的なプロセスです。それが曼荼羅であり、堆肥を作るにせよ、パンケーキを作るにせよ、何かの問題を解決しようとするにせよ、同じことなのです。あなたが固定されたもののように経験した問題を、あなたの意識の精練器に入れるのです。心に表象を描き、リズミカルに動かして’緩める”のです。すると問題の硬直性が、逆転の可能性へと緩み始めます。そして空気の段階では、緩んだ問題の表象を睡眠に持ち込みます。眠りと夢の混沌は、内面作業における火の進化なのです。

ところで、プロセスが火のところまで来ると何が起こるか分かりますか? 宇宙は「オーケー、もう一度戻る必要があるようだな」と言うのです。そして、それは空気としてあなたに戻って来ます。それが夢です。そして突然、夢は分泌腺からの反応という形であなたの生命体に入り、あなたは目覚めます。目覚めた時、それは地であり、夜と朝は意識の曼荼羅における、ひと呼吸のプロセスなのです。

火の元素は、鉱物の領域において宝石の形成過程に代表されます。水晶のような宝石を、粉砕してすりつぶし、極小にするのは、謂わば、火の過程に移すことです。それを水の中に入れるなら、つまり調理しているのです。
 
四大元素の曼荼羅を扱う鍵は、まず自分が曼荼羅のどの位置にいるのかを知ることです。「原型が現れてくる過程のどこを 自分は取り上げたのだろうか」と尋ねる必要があります。どの過程を取り上げたのかが分かれば、次の過程が見つけやすくなります。これが、イマジネーションの道具としての曼荼羅の素晴らしいところです。それは、私たちが変容のプロセスのどこにいるのか、そして次のステップを教えてくれる地図なのです。ルドルフ・シュタイナーは、彼の農業講座や著書『神秘学概論』の古代土星紀の章で、このような考え方を用いています。ちなみに四大元素の起源は古代土星紀にあります。

感覚器官

眼球の層構造

図は胎児の眼球を形成する層の断面図です。a)には胎児の脳組織が見えます。胎児の発生プロセスのある時点で、脳は皮膚の表面に向かって小さな仮足を出し、脳組織が表皮に触れます。表皮はそれに応えて触れ返します。a)では、外胚葉が表皮です。脳は表皮を押し続け、表皮は押し返す。この相互作用の中で、外胚葉層の一種の折りたたみが起こります。これが眼球の水晶体を形成するのです。あなたの目の水晶体は、表皮層が折り重なって非常に圧縮され、b)のように一種の結晶になったものです。このように、目の水晶体は結晶の形態形成なのです。

しかし、脳から突き出ることによって、表面からの逆流が起こり、水晶体が脳に向かって押し戻されます。これがb)の状態です。外胚葉が畳まれ、水晶体が脳の方に押し戻され、脳が手を伸ばして水晶体を包み、空洞を作ります。c)では、水晶体は埋め込まれています。網膜が囲いこまれた空間を作り、網膜の裏側が脳の表側となります。ここには、四元素の働きがよく表れています。地の作用が中心点から始まり、外に出て、宇宙からの反応を受けとめ、押し戻し、反応し、また押し戻す。境界の閾での、この押したり引いたりこそが、火の元素作用なのです。火は境界の際まで押し上げ、そこからの反発を誘います。

火は最も遠い辺境の領域(Periphery)であり、そこにこのプロセス全体が原型として保持されています。他の3つの要素は、3つ合わせたプロセスとして、やはり火の原理を構成します。地から水に行くには火を使わなければならないし、火から空気へ行くにも火を使わなければならない。火から熱エーテルに行くにも、私は火を使って霊界に入ります。火は純粋な辺境の領域であり、潜在性です。空気はほとんど純粋に近い辺境で、少し顕在性があります。水はそのような純粋な辺境ではなく、より顕在的ですが、辺境を取り込みます。地は、私たちが辺境から外れてしまった場所だと思います。元素の働きは常にダイナミックであり、常に途中経過であり、常に”成りつつあり”ます。一つの元素が結論を出すと、次の元素が火の原理によって変容をもたらします。火の元素は完全な変化の本質なのです。それぞれの変化を導くが、それに限定されません。火は、辺境の領域に逃げ去るまでは、あらゆるものに親密です。これは大いなる神秘です。中心が周辺に向かって押し出すと、周辺はそれに応えて内側に押し返し、両者は相互に作用します。両極の釣り合いを取る、この相互作用が火の要素なのです。

火は場の本質だと述べたのを思い出してください。霊的な領域における場は、秩序はあるけれども顕在化していません。これは理解するのが難しいです。潜象界では、コアギュラとは顕在化の可能性であり、それに現象は伴っていません。高霊位の創造的存在たちには、顕現のアイデアだけを持つ霊たち(叡智霊Kyriotetes)がおり、次に、顕現の作用について考える霊たち(運動霊Dynamis)がいます。そして、顕現される形態に積極的に取り組む他の霊たち(形態霊Exusiai)がいて、さらに、その顕現を好み、そこから世界を作れると考える霊たち(人格霊Archai)がいます。それに加えて、「私はそこから世界を作れると思う」と言うのを聞いて、他と関わらない別個の世界を作りたいと願う者たちに、彼らの注意が行くように、小さな個別の箱に全ての意図を集中する霊がいます。その霊はアーリマンと呼ばれ、その働き手であるアシュラたちは、堕落した人格霊です。

こうして、私たちは、顕在化可能な何かのアイデアを表現する霊から、物事を顕在化させることを仕事とする霊へと行きました。このプロセスが人類の堕罪と呼ばれるものです。霊的存在だからといって、何時も親切だとは限りませんし、霊的存在だからといって、物質と何の関係もないわけではないのです。もしそうなら、アーリマンは地球に興味を持たないでしょう。しかし、アーリマンは霊的な表現とは別の現象化としての地球に深い関心を抱いています。ここは彼のお城を作る砂場のようなものなのです。私たちが ”霊”と言うとき、コアギュラは非現象の霊界の重要な一部であることを理解する必要があります。

人類の堕罪のドラマは、人体における感覚器官の形成と密接に絡み合っています。感覚から身体へのあらゆる入力について、もしそれらの感覚的印象を和らげる瘡蓋(かさぶた)がなければ、私たちは感覚活動によってへとへとになってしまうでしょう。そして、宇宙の創造的な光によって、私たちの魂は灼かれてしまうでしょう。私たちはフィルターを通して感覚刺激を取り込み、凝縮し、制御しなければならないのです。私たちの鼓膜は、入ってくるあらゆる感覚刺激をフィルターする瘡蓋のようなものです。私たちは光を受け取るために目を持っていますが、目のレンズは、瘡蓋と同じように、外胚葉から形成されます。私たちには皮膚がありますが、これは基本的に外側の層にある死んだ組織です。これは、私たちが微風にさらされるごとに、生きたまま皮を剥がれるのを防ぐための瘡蓋なのです。

私たちは、感覚経験から最大限の影響を受ける場所に、傷痕で自分自身を取り囲んでいるのです。基本的に、胎児の眼球における水晶体の形成は、傷痕を形成するようなものです。その傷痕は私たちの意識から切り離されています。ありがたいことに、私たちは堕罪を経験し、宇宙が入ってくる場所に傷痕があるため、その直接的な体験から遮断されているのです。私たちが感覚器官と呼ぶその傷痕は、高次の霊による創造活動の骸なのです。

偉大な霊的存在が、完全に全能の状態から、無知な人間によって吹き飛ばされるまでになろうと決めたという事実が、愛です。これが、楽園からの人類の追放について私が言いたいことです。この原型は、霊的な世界から現象界に来て病むまでの過程です。それは偉大な犠牲です。愛なのです。愛とは、世界が私たちに影響を与えることを許すほど、無防備になることを自分自身に許すことです。あなたが私を見ることを許すのです。それがシュタイナーの愛の定義です。彼はあまり定義づけということをしませんが、こう言うのです。「愛とは、他人に見られることから自分を守る必要がないほど、自分自身が無防備になることを許すことです。他のすべてのものは、愛ではなく、自分が愛に期待する小さな考えを握っているのです。自分の関心へのお返しを期待することは、愛ではなく、ただの人間の性癖です。愛とは、人間に感覚器官を与えることに参加した高次の霊的存在たちの行為です。

私の身体は私の霊性の結晶です。私の肉体は、私の霊性が結晶した形です。あなたの骨、あなたの細胞はすべて液晶ディスプレイです。このような流動的な乗り物だと思って、あなたが乗り回しているあなたの体は、その中に霊がいて、炉の中で火を燃やし続けているから流動的なのです。霊性が去ると肉体は結晶、つまり骸、塵となります。霊性の火だけが私たちを動かしているのです。霊性の火によって私たちは、結晶の中に押し込められた霊として存在することに、執着しているのです。私が、世界の構造に対して無防備にならなければならないことをようやく理解したとき、これが錬金術師たちが”錬金術の結婚式”で語っていたことであったのに気が付きました。私たちは世界を、それが現象化している通りに受けとめ、自分の感覚を通して取り込み、内側に形成しなければならない、と彼らは言うのです。感覚から生きた表象への繋がり方を変えることで、あなたの肉体と霊性を結婚させなければならない。なぜなら、あなたの感覚には死があるからだ、と。あなたの感覚は、遭遇するほとんどのものが骸であり、その命の実体はどこか別の次元で活動している、そんな世界にあなたが生きているという印象を与えるのだ、と。なぜなら、あなたの感覚は、あなたが無防備になりすぎないように守るために備わっているからで、もしそれがなかったら、あなたはとても傷つきやすくなり、死につつある地球を霊的な存在に戻すという使命を果たせなくなってしまう、と。

考えてみてください。死にかけた地球を変容させるという使命を果たすために、私たちは奇妙なことをしなければなりません。 まず目玉に付いた小さな傷痕組織を通して世界をひっくり返さなければなりません。あなたはそれを受け取り、そこに存在する世界に感謝を捧げますが、その力に対処するためには、世界をひっくり返さなければならないのです。もし世界を霊的な存在としてまっすぐに見ていたら、私たちはすぐに蒸発してしまうでしょう。だから、私たちは地球に対する感覚経験を絞り込んで調整し、その創造的なパワーを溶解させることなく取り込むことができるようにするのです。私たちは世界を取り込み、さらにもう2、3回ひっくり返し、それを視覚過程というのです。しかし、もし私たちが実際に見ているとしたら、肉眼の必要はないでしょう。魂の目は頭ではなく心にあるからです。

現象学の目的

内的表象に取り組んで、それを変容させるとき、私たちはルドルフ・シュタイナーが ”心眼”と呼ぶ器官を発達させます。それが現象学の目的なのです。自分がどう物を観るかをコントロールする方法を学んだ時、私は世界を変容させます。まず、何も内容を加えずにものを見ることから始めます。それができるようになったら、次の段階は、自分の見方を観るのです。何かを見るたびに、自分が見ているものは、--であるという先入観で見ていることに気づく必要があります。オーウェン・バーフィールドは、知覚は概念に浸されており、それが感覚対象の本質を見ることを妨げていると言いました。進歩するためには、私たちはそこにあるものを感じ取り、その経験と自分が見ていると思っているものとの違いを確認しなければなりません。知覚の行為において、このように自分自身を吟味することが現象学なのです。現象学のより高い形態は、自分自身によってチェックされることに反応する私たちの魂を観察することです。これは、葉っぱを見るという体験から始めることができます。それは、葉を見ている自分自身を見るという経験へと変化します。この2つの間には呼吸のプロセスがあります。この呼吸の両極に取り組むことで、私たちは感覚世界を自分自身の中で何が起きているかを知る尺度として使い始めます。私の理解では、これが現象学の真の目的なのです。

魂の現象学が可能になれば、魂の世界が開けて、実際に世界で起こっていることを反映していない信念を、自分が持っている状況が明らかになります。これはすべての秘教探求者にとっての偉大な訓練です。--自分自身の信念を食べ、突然非難する余地のなくなった世界で、自分自身のバランスをとる方法を見つけることです。ここで、私が眠りの中に表象を送りこみ、別の誰かに火の要素を齎してもらうことに戻ります。他の人がイメージや意見を持って私のところに来るまで待つ忍耐力を持つことで、私はその洞察を操作していないことを知ることができます。そこで、その洞察をググったりして、さらに理解を深めます。私のイマジネーションは、霊的な存在と結びついた洞察に導かれていることを、他の人が示してくれたのです。

眼球の層構造

眼球の層構造の図では、肉体の受肉を導く火の元素には、無限辺境への拍動があり、それを、辺境が押し戻しているのがわかります。やがて、火の要素における両極の押し引きが、”形”と呼べるものを作り出します。しかし、それは 引用符つきの”形”であって、特定の形が現象化する可能性のことです。臓器はそうやって作られるのです。

魚の心臓と渦巻状の水流

この図の左側は、魚の心臓の断面図です。上部は人間で言うと心房に当たり、これは動脈球と呼ばれます。この魚の心臓では縦に血流が流れます。そして右側に吸入口のようなものがあって、矢印は内部へ向かい、下部にある心室は、血液が動脈球へ上がっていくときに収縮する部分です。そこから血液が体内へ出ていくのです。また、心室の襞には小さならせん状の流れが見られます。灰色の部分は心臓の組織で、その中にいくつもの”小さな指”があります。心臓が収縮すると、小さな渦が発生し、それが小さな開口弁、あるいはベンチュリ管のような形を通って動脈球に上がっていきます。この心臓の働きは、魚が動くたびに起きるのです。

内流が小さな渦から大きな渦へと段階的に発展し、血液は外へ出ていきます。それはベンチュリ管、あるいはエンジンのスーパーチャージャーのようなものです。それが魚の心臓です。一般的に心臓は、血流が活動から顕在化へと落ちる結果として形をとります。心臓組織は、あなたの血液の川にある砂州のようなもので、そうやって形成されるのです。ソルベからコアギュラへの変化です。

図の右側は、静止した水の入った容器に、管から水が流れ込んでいる写真です。水には染料が入れられています。管から水が出てくると、魚の心臓の図と同じような小さな渦の列と渦巻きが形成されます。小さな渦の後にはベンチュリー管のような形が続き、上向きのうねりを発生させてより大きな形に発展します。水の形と魚の心臓の流れを表面的に見ただけでも、どちらも同じパターンであることがわかります。

一方は有機体の一部であり、もう一方は元素世界の一部ですが、両者は同じ形成パターンを共有しています。何故そうなるのでしょうか?ルドルフ・シュタイナーの考えによれば、地、水、空気、火の元素界は、非現象界からイマジネーションを受け取っています。生物の体内で働いている元素的存在たちは、そのイマジネーションを取り込み、それが生物組織の生命体を作り出します。雄鹿の膀胱、牛の腸、動物の頭蓋骨など、それぞれの器官が特定の形成過程を経て、特定の形態に至るのは、特定の関係にある一連の諸力のイマジネーションから来るのです。そして、一度形成された器官は、それを形成した力とのつながりを維持します。臓器が形成され、身体の中でその位置を占めると、臓器を形成した力のパターンが、臓器の機能となるのです。臓器の形は、それを形成した力とつながりを保ちます。ということは、その臓器を取り出して、別の何かをそれに詰めて、そこにまだ保たれている非現象の形成力を利用することもできます。その器官の形成を導いた力が、まだその器官とつながっているからです。臓器を形成したそれらの力は、元素の曼荼羅の非現象、つまりエーテル的な側にあります。ルドルフ・シュタイナーは、顕在化していないイマジネーションをエーテル界の活動、あるいはエーテル界の霊的存在たちの創造的イマジネーションと呼んでいます。

エーテル界と元素界

この図で元素界の要素は、最も顕在的な要素である「地」から始まり、顕在的でない「水」、さらに顕在的でない「空気」、そして最後に最も非顕在的な要素である「火」に至ります。そして、元素界とエーテル界の間のちょっとした膜が、現象側の元素と非現象側のエーテルを分けています。

最も現象的でない元素である火は、最も現象的なエーテルである熱(暖かさ)のコアギュラであることがわかります。 熱は潜在的なものであり、火は最も非顕在的な元素ですが、現象化しており、熱は潜在的なのです。 火の元素が熱のより繊細な状態を含んでいることを説明しましょう。秘教的には、熱(暖かさ)は熱意と意志を表しています。熱意が顕在化するとき、私たちはそれを火として見ます。古代文明では、火は神でした。ある人々にとっては、いまでもそうです。古代インドや中央アメリカの儀式、アグニホトラでは、太陽が地平線上にあるときに、経文を唱えながら、牛糞を燃やします。その灰を植物に散布すると、植物は驚くほど成長します。ある区画には灰を撒き、別の区画には撒かない実験では、灰を撒かれた区画の植物は目覚ましい成長を見せました。火と熱という元素とエーテルはほとんど同じようなものですが、まったく同じではありません。

魂の領域では、熱意と意志は熱(暖かさ)のエーテルと関係しています。だから、私は自分の意識を通してその暖かさの中に入ることができます。そして火の暖かさは、地球を水に、水を空気に、空気を火に変容させる媒介者なのです。この仕事において、私のアカーシャ、私の意識が、たとえ病気の時でも、存在することへの熱意を齎しています。そうでなければ、私はここにいないのです。

存在することへの熱意を失ったとき、私は退場していきます。火と熱(暖かさ)において、元素とエーテルは非常に近い関係にあります。暖かさは、高次の意志霊(Thrones)が世界に齎した「存在への熱意」です。存在しようとする意志や熱意は、古代土星紀に生まれた霊的な熱(暖かさ)なのです。やがてこれは、意志霊(Thrones)から叡智霊(kyriotetes)へ受け継がれ、叡智のプロセスを経ます。光の意識の存在である叡智霊(Kyriotetes)によって、古代土星紀の意志の熱は、古代太陽紀の叡智の光となります。光は存在しようとする熱意の叡智なのです。それは、ただ“在りたい”という意志ではなく、”在るとはどういうことなのか”という叡智の意識です。光とは、在ることの意味の自覚なのです。したがって、宇宙の辺境では、光エーテルは音エーテルの顕現の可能性を表しています。音エーテルは光エーテルよりもさらに高次のエーテルであり、光エーテルは音エーテルの骸です。

シュタイナーが示したエーテル界の構成を理解するには、エーテルの段階が変わるとどう変化するのか知らないと難しいです。エーテル段階を上に行くと、そのエーテルは一つ下のエーテルを含んでいます。しかし下へいくと、一つ上のエーテルは含みません。私が光のエーテルに上がるとき、私は熱エーテルを含んでいます。熱が火をつけて光になるのです。しかも、目に見える光だけでなく、叡智霊(Kyriotetes)から人類への贈り物である理解の知恵の光でもあります。

光は伝達の力であり、宇宙がどのようにして大いなるエネルギーの場を創り出しているかを明らかにします。射影幾何学を通して見ると、宇宙のエネルギーの場は、織り成す無数の光の平面で構成されていると見ることができます。これは、シュタイナーが「光の織物」と呼ぶもののイメージです。科学によれば、光はエネルギーの面として星々から流れてきます。星々からの無数の光源は、絶え間なく平面を織り成し、大きな可能性のエネルギーに満ちた個々の点になります。幾何学的には、3つの星が光の平面を作り出し、それらが点で出会う可能性を生み出します。しかし、そのすぐ隣には別の星があり、また別の点、また別の点、無限の光の点の可能性の海が生まれます。光の点はどこにでもあり、ある位置から別の位置へと絶えず変動し、空間に現れ、そして別の次元へとくねくねと伸びていくのです。量子力学では、物理学者はこのような動きを量子場の揺らぎと呼びます。フォトンは絶えず顕在性と潜在性の間を行き来しており、それが量子場であり、光や暖かさを生み出すエネルギーの源なのです。ルドルフ・シュタイナーはこのプロセスをエーテル界の自己創造と呼びました。

光と熱の全ての点は、膨らみ、成長しています。これらの動きはすべて、織り成す光の大海を創造します。エーテルがこの力のプレロマの潜在性を作り出し、元素が潜在性を顕在化させます。地、水、空気、火、熱、光、音、生命の段階は、それぞれ霊的存在の意識状態を表しているか、計測不能の巨大な力として存在しているかです。

エーテル界で、光からさらに高みへ上昇すると、光と織りなす平面の幾何学的な形が見えてきます。かつて、その幾何学は 「天球の音楽 」と呼ばれました。天球の音楽とは、無限の彼方から織りなすすべての光が奏でる秩序だったパターンのことです。ルドルフ・シュタイナーはその領域を音エーテル、数エーテル、あるいは化学エーテルと呼びます。この段階は熱エーテルと光エーテルを含みますが、潜在性が無限へと一歩進みます。音エーテルでは、すべてが秩序づけられている水晶天に近づき、数エーテルでは、究極の混沌の状態であっても、すべての現象が秩序づけられる可能性を示しています。混沌とは潜在性を意味することを覚えておいてください。音エーテルはロゴスと呼ぶこともできます。「初めに言葉があった」 と言う時の 「言葉 」とはロゴスのことであり、物事の番号付け、秩序、大いなる宇宙の化学反応、潜在性を奏でる天球の音楽、そして万物の持つ言葉のような性質を指します。

熱エーテルの骸としての火、光エーテルの骸としての空気についてはすでに触れました。音、数、化学エーテルについてはどうでしょうか。既におなじみの水に行きあたります。水は数エーテルの骸なのです。この組み合わせは奇妙に思えるかもしれませんが、あらゆる化学的な作用、つまりあるものを別のものに変える組み合わせや変容を活性化する、水の潜在性を思い出してください。水は音エーテルの骸であり、空気は光エーテルの骸であり、火は熱エーテルの骸なのです。

形成されたものを、非顕現なものの「骸」と呼ぶのは錬金術の語法です。水の元素として顕現化し骸となる、この数、音、化学のエーテルは普遍的な溶媒ですから、非常に高次のエーテルです。アルケミストたちが、霊から顕現への転落を表すのに骸という言葉を使ったのは、彼らの本業が、物質の骸を潜在的な状態に戻すこと、つまり復活させることだったからです。彼らは物質の骸を復活させることで、物質が本来持っていた創造的な力を治癒に役立てようとしたのです。錬金術師にとって、骸とは軽蔑すべきものではなく、永遠の生命の可能性を表しているのです。骸には、地球を恒星に変容する鍵となる人間の感覚生活の可能性を示す偉大な秘密の塩、あるいは幻像が隠されているのです。骸という言葉に惑わされないでください。私は錬金術的な論理のために、意識的にこの言葉を使っています。

さて、水の元素まで来ましたが、まだ終わっていません。エーテルを地の元素まで降ろさなくてはなりません。化学を導くものは何でしょうか? 生命......普遍的な生命のエーテルが、地の元素として顕現するために捧げられているのです。最も低いものが最も高い。これがヘルメスのエメラルド・タブレットにある「上にもあるように、下にもある」です。クリスチャン・ローゼンクロイツの”錬金術の結婚式”の2日目にもあります。結婚式の祝宴に招待され、一番前の席に座ると、主人がやってきてこう言います。「失礼ですが、他に友人としてもう少し親しい方がいらっしゃるので、差し支えなければ、あなたはもう少し後ろの席へ移動してください」。これはあなたをブルーな気分にさせます。しかし、もしあなたが後ろの方に座ったなら、主人がやってきて、「もう少し主席の近くに座ったらどうですか」と言うのです。これがキリストです。”高い者は低い者になり、低い者は高い者になる。心の貧しい者は幸いである。”

つまり、普遍的な生命は最高のエーテルであり、他のすべてのエーテルとそのすべての可能性を含んでいます。これによって、意志霊(Thrones)を超えた存在たち、調和霊(Cherubim)と愛の霊(Seraphim)が、その贈り物を地上にもたらし、偉大なドラマが起こる場所を創造するために、喜んで犠牲になることになったのです。この偉大なドラマとは、地上の顕現に堕ちたものを霊に復活させ、それを神に返すという薔薇十字主義の使命なのです。

秘教的叡智

以上を踏まえて、新しい農業について考えることができます。そこでは、その身を捧げて骸となった地球の霊性を復活させるために、私たちは地上の司祭として、秘儀を執り行うのです。宇宙的生命から離れ、肉体に宿ったのはキリストの行為です。これが、私たちが生きるために生命を与えた地球の定め(運命)なのです。農業は、過去の生命の骸を錬金術的な手法で復活させ、癒しの薬として大地に還す方法となり得るのです。自然を受け取ったときよりも良い形で神に返すにはどうすればいいのでしょうか? 感覚を通して経験するものが、すべて自分から切り離されたものだという、人の根深い思い込みによって、地球は骸と化します。もし私が地球を平気で利用し、地球の霊的な運命や地上の人としての役割につながっていないとしたら、私のせいで地球は人知れず苦しむことになる。そういう認識を進んで受け入れるほど魂が無防備になることを指す合言葉が、愛です。苦しむことと、人知れず苦しむことはまったく違います。だから、自分が地球を霊的存在としてではなく、資源として扱っていることに気づくと、虫のように胸がつぶれます。これは、学校で環境学を学ぶ際に多くの人が経験する罪悪感です。為すすべのなさと情けなさを感じるのです。

私に何ができるのだろう?このまま虫のように潰されてしまうのだろうか?いや、私は私の意識を通して表象を天(Cosmos)に齎すことを自分に課するのです。それによって自分が地球と共同創造していることを感じ、地球の霊的な運命を認識するという私の小さな、しかし重要な、使命に望むのです。そうすることで、堕ちたものを神に返す方法を直感することができます。私の魂を、実存的な罪悪感から、地球の運命における私の役割を想像する意欲に変える唯一の方法は、能動的なイマジネーションによってです。想像力を働かせることで、地球の資源を自分のためだけに利用する習慣に対する実存的な罪悪感を乗り越えることができます。このような罪悪感は、目覚めの第一歩を踏み出した後には役に立ちません。ただ自分の感覚を麻痺させ、絶望の大きな原因となります。この人類に与えられた自由の代償を払っているのが地球であることは、まぎれもない事実です。さらに、私たちが認識しているかどうかにかかわらず、地球共同体への敵対勢力が大きな力として利用しているのも、私たちの自由なのです。実存的罪悪感ではなく、目覚めた、想像力豊かな人間の認識だけが、人類から高次の霊的存在として認められていないという恥辱から地球を解放することができるのです。
 
私たちは皆、地球を資源として利用することでは同罪です。しかし私たちが悪いのではなく、やるべきことがたくさんあるということなのです。私たちは意識を変容させて、地球とその霊的存在たち、そして地球の一部である元素的存在たちと関わらなければなりません。そうすれば、霊的地球の運命にその力が織り込まれている偉大な霊的階層(ヒエラルキー)における彼らの位置を認識する準備が、私たちの意識に整います。地球の現象のイメージを眠りの中に取り込むことで、その認識に瞑想的に取り組むことができます。これは対話のプロセスの始まりであり、地球の運命に関係する霊たちが、未来に進むための正しい方法のイメージを私たちに与えてくれるのです。地球の健康に対処するために、どのように材料を取り上げ、より効果的にすることができるかを想像するために、彼らの助けが必要です。どうすれば自然のものをより効果的なものにできるのか。まずそれらがどのようにして、今の姿になったかを理解し、骸となった意味を知る必要があります。永遠の命が現世に死んで、地上の顕現体を持つ存在となったドラマに魂を開かなくてはなりません。つまり、私の車の鍵は、汚染者クラブへの鍵でもあるのです。このことに気づいたら、「ああ、なんてことだ。とてもやっていられない。」という実存的な衝動を、地球の霊的な運命のイマジネーションに変換しなければなりません。このどうしようもない憂鬱を変える方法は、自分と個人的で象徴的な関係を持つと思える地球の表象に瞑想的に取り組むことなのです。

霊性を表すシンボルと個人的なつながりを持つことは、霊界に感謝を示す一つの方法です。あなたが興味を持った現象について内的表象を描くと、その現象の背後にいる自然界の存在たちが、あなたの意識と関わることができるようになります。自然の摂理におけるその現象のより深い意味を、彼らがあなたに教えてくれることが可能になるのです。内的表象の形成には、感謝の気持ちと畏敬の念を伴う必要があります。そのためには、自分の人生と個人的に関係がありそうなイメージを選ぶのが最も効果的です。このプロセスには、霊的ヒエラルキーへの橋渡しとなるシンボルの形成も含まれます。しかしその前にはっきりしておかなければならないのは、このやり取りには、霊から来るものを個人的に自分が受け取るだけでは不十分だということです。それは、ルドルフ・シュタイナーが言う「万人の万人に対する戦争」につながり、そこでは誰もが、自分だけのちょっとした魔法の表象や自然の守護霊を持つ小さな魔術師になってしまうのです。このような状況が、アトランティスとレムリアでの世界の破局を引き起こしたのです。レムリアの壊滅は植物の力と結びついており、アトランティスの滅亡は大気の力と結びついていました。どちらの場合も、魔術師たちは道徳的な理解を伴わずに、自然の力を操ることを学んだのです。ゴルゴダの奇跡がまだ起こっていなかったので、彼らにはキリストという安全装置がありませんでした。

ルドルフ・シュタイナーはこのすべてを描写しています。それは、エホバ(Jehovah)が自然の摂理の創造者、神として支配していた時代です。人間は創造主に何をすべきかの指示を仰いでいました。しかし、魔術師たちは、正反対の道を歩み、自然の摂理を顧みることなく、自分たちの望むことを何でもしていました。正しいことをしなかった、その結果が大災害でした。私たちは今、テクノロジーの扱い方に関連して、似たような状況に陥っています。小さな個々人が、自分が何をしているのか本当に認識することなく、実に大きなことを行えるようになっているのです。アメリカの大統領や、中国の首相、イランの大導師になるということもそうでしょう。私たちは、活力を失いつつある、とても小さな地球の上に生きていることを再認識して行く過程にあります。今、私たちはこの事態に対処するために、再び一つにならなくてはなりません。ただし、私は秘教主義者として、研究課題への答えを受け取る方法には、ベクトルがあることを認識する必要があります。 そのベクトルとは、私の答えが本当に私の質問に対する答えであることを、あなたが私に納得させてくれるまで、私自身の答えを保留しなければならないということです。

これが 「一つ 」に戻る道なのです。このように自分を訓練すると、人々が私に語りかけてくることを、一日中まったく違った形で聴くようになります。そして、私が求めている答えは、霊界が私に言っていることを無意識に直感している他の人たちを通して、もたらされていることを学ばなければなりません。このような交信は常に周囲の人たちを通してもたらされていることに気づけば、想像力を働かせて答えを得ることもできますが、本当に重要な問いに対しては、ただ直接に答えが与えられるのではなく、安全装置の緩衝体があることに少なくとも留意しています。古代の魔術師たちは直接答えが与えられることに慣れ、やがて個人的な信念や教義、コントロールする必要性といったもので、秘教的叡智が汚されていったのです。これが神秘学の退廃につながりました。大勢の人々が集まって、「これこそが、唯一の秘儀の実践である。」と言った時、この頽廃が支配的になりました。「私は501調合剤を別のやり方で使ってみます。」と言ったらどんな反応があるか、やってみてください。あなたは古い考え方を経験することになるでしょう。

元素界では、火は、熱の意識、存在への熱意、在る意志と呼べるような、まったく別の次元へと導く境界の閾です。光エーテルの存在たちの意識は、世界を意識でできていると認識します。音エーテルの存在たちの意識は、世界を秩序あるものとして見ます。これがロゴスの場の共通意識です。そして、生命エーテルにつながる存在たちの意識は、秩序だった意識が完全に開いていて、偏りがないのです。生命は、たとえ完全に正反対のものがあったとしても、無理や矛盾なしにすべての両極を含んでいます。私たちが10番目の霊的ヒエラルキーになり、地球が太陽になるとき、私たち全員がその意識を持つようになります。ロゴス性の大海原の進化サイクルの中で、人々の集合的な意識はいわばホメオパシーの一滴として機能するでしょう。今日、その意識は地球の意識として存在しています。ルドルフ・シュタイナーによれば、キリストは聖金曜日の磔刑の後、ロゴス性の種を地球に埋めたのです。人類は、その種を未来のための集合的霊的行為として発芽させる必要があります。キリスト存在は、今は地球の霊意識なのです。さらに、キリストという存在はすべての人に開かれていますが、2人が出会ったときにのみ現れるのです。地球の運命と人の運命の間には、とても美しい関係があります。二人が出会うとき、ふたつの別々の意識の形が組み合わさることで、キリストが入ってくることができ、私たちは聖霊について語り始めるのです。

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