ありのままを受け取るということ
昨年の6月からもぐら会で毎月原稿を書いている。締切日に遅れることはあっても常に月内には提出できていた。元々書くことに関して素人の自分なりに、よくやっていたと思う。
ところが1月は初めて課題を出せないまま月末の日を迎え、そのまま1日を終えた。何度も書こうとしたが、やはり書けなかった。
指定されたテーマは「不快感」。生きていればイヤでも誰だってぶち当たる、何なら今日一日を振り返ってもいくつも書くことが浮かび上がりそうなテーマで書けない。
どうして書けないのか、理由を少し落ち着いて考える中で、不快なできごとに出会った時の印象がどれも似通っていることに気がつく。
直近の思い出せる不快な記憶はどれもがパッケージ化したように統一されたよそよそしさとのっぺりとした手触りのなさ を備えていた。
不快な感情は自身の経験や志向しているものの影響を強く受ける。とても個人的な動機で発露する感覚のため、生々しさや時には理解しがたいような熱を備えていてもいいはずだ。
ところがわたしの記憶から引き出せる不快な記憶はそうではなかった。
時間をかけて観察を続ける中でわたしの中の不快な記憶が誰かによってデザインされたものではないかという疑念が浮かび上がる。
嫌な予感がする。どうやら犯人は他ならぬわたし自身のようだ。
不快感をデザインする なんてどうして、と考えもしたが答えは一瞬で出た。そう、すべては自分を守るため。
今ではヘラヘラ笑ってられることも増えたが、今から数年前のある時期は毎月100時間に届きそうな残業時間で身を削ったり、閉塞感あふれる士業事務所でパワハラを受けたりするなど心身ともにひどく消耗する場で時間を過ごすことが多かった。その環境の中で無意識化で「不快感をデザインする」ようになったらしい。
つまり、出来事に対してすぐに感情を発生させるのではなく、できごとの意味づけを事前に行い、生じるであろう不快感を低減できるようにしてから情報としてインプットしていたようなのだ。
過酷な労働環境の中で原型のまま不快な感情を呼び起こす情報を受け取ることはよほど受け入れがたいものだったのだろう。私は自分でも気がつかないうちにありのままを受け取らず、都合のよいものを見るという行為を企図し実行していたのだ。
結果的にこの作戦は成功したようで、私の心理状態はうつ的状態には陥った時もあったものの、最悪の状況を逃れることができた(今も生きているし、元気に生活できている)。
ただ、自身を守るための代償として世の中を都合よく理解し解釈するという回路が脳内に出来上がり、定着した。
一見特に問題が無さそうだが、出来事を自分の都合のいいように曲解してありのままを受け取れない、受け取らない態度というのは真に他者の心理を理解しようとする場面では致命的になる恐れがある。
なお、知覚した不快感がいずれも不明瞭でよそよそしい印象を与えてくるのは一連の感情処理の副反応と言えそうだ。
もぐら会の中では感じていること、考えていることを真摯に話し合うことが珍しくない。その場面で思い知らされるのは自分の知覚できている領域の狭さや想像の及ぶ範囲の浅さ。
自分の至らなさを感じる場面に出くわす度にありのままを受け取って身の内に置くこと、時間をかけて消化することで内面化する強さがあるのではないかという思いを強くしている。
今になって不便を感じることがあるとはいえ、当時の自分を責める気は毛頭ない。むしろ、自分なりに懸命に獲得した能力のおかげで生き延びてくれたことに感謝している。
ただ、これからはできごとのありのままとそこから生まれる素直な感情を受け取ることに再び挑戦したい。作り上げた身を守る術を捨てるので、きっと痛い思いもするし失敗だってするだろう。
それでも、より深くわかり合いたいと思える人たちに出会えた幸運を前に不快感すら自分の味方につけ、一度きりのこの日々をさらに味わっていきたいのだ。
#もぐら会 #不快 #感情 #挑戦 #成長
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