博覧会と聞いて沖縄を考える
今は建物を失ったリバティおおさか(大阪人権博物館)が主催された「人類館事件を知っていますか~博覧会と差別」に参加した。80~90席の会場に150人が詰めかけた。リバティの名前で今もこれだけ人が集まるんだな…、と感慨深くなった。
橋下徹に潰されたリバティおおさか。私は、その展示が誘導的ではないか、学問的に正しいのかなどと、いつも批判的に見てきた。だが、潰してよいとは思っていなかった。だから、あとのまつりで残念なのだが、存続に向けたカンパもした。
リバティで蒐集された資料は「大阪公立大」へ行くことになったらしいが、今回のようなお客さんをはじめ、有形無形のストックが行き場を失っている。
大阪府にあるもう一つの施設、ピースおおさか(大阪国際平和センター)は「大阪府平和祈念戦争資料室」が前身だが、私は高校生の頃に資料室設立に向けたカンパをした。ピースおおさかは生き残ったものの、内容が換骨奪胎されてしまった。「高校生の3000円は大きかったぞ、カネ返せ」と私は言いたい。
さて、地政学的に狙われやすい沖縄。中国の喉元に突きつけるような位置にある。コロナ明けの観光客が増える一方で、軍事要塞化が進んでいると聞く。
人類館事件というのはあまり知られていないが、約100年前に大阪で開催された内国勧業博覧会で、「人類館」なる施設に、沖縄・アイヌ・台湾などの生身の人間が「7種の土人」という見世物として「展示」され、沖縄からの抗議を受けて一部が中止されたという事件である。
「性質が荒々しいので笑わないように」という立て札があったと聞くと、最近の「土人」発言をした大阪府警の機動隊員を思い出す。博覧会というものが明るい未来のイメージを描きやすいだけに、衝撃的な話だ。
講師の金城カナグスク馨さんが言われるには、
*この事件は公的には何の検証もされていない、だから「事件」と呼ぶほど事件化されていない、といえる。
*それもあって、沖縄への差別意識は綿々と受け継がれ、基地問題もこの事件に連なる。
*沖縄問題というが沖縄が悪いわけではない、本土の人間が基地を押しつけているわけで、それをやめればよいだけのこと。
*本土からの基地反対運動への参加者は連帯している気になっているようだが、示威行為だけでは世の中は変わらない。
*沖縄という他者を理解するのでなく、ヤマトンチュは自分のしていることを自覚せよ。
*これを検証しようとする研究者のネットワークがやっと動き始めた。
…とのこと。
金城さんには何度かお世話になった。過去に講演してもらったこともあったし、主宰されている関西沖縄文庫を職場の仲間と訪ねたこともある。基地の押しつけの話は、原発の押しつけや東日本大震災と同じ構図だな、とも思う。
ただ、理解しようとするスタンス(上から目線)が問題だとして、「理解が生む差別」などと言われると、たいていのヤマトンチュは面食らう。言わんとすることはわかるのだが、わからない人に対してどう橋渡しすればよいのか、とまどった覚えがある。
多文化共生という言葉は、私もいまだになじめず、そこは講師と同じだ。2006年、総務省の報告書から一気に広まった言葉だと思うが、multi-cultural のマルチを「多」と訳すのがどうも妙だし、「複文化」という概念も並行して走っており、ややこしい。「共生」も、そもそも生物学用語だが、こちらはなんとなく定着したような…。
講師の言われるとおり、何も学ばず「多文化共生」とだけ唱えると、自分の立ち位置を考えず、3F(Food, Fashion, Festival)に終始しやすい。
(例えば、生野コリアタウンの韓流ブーム以降の変化を見ても、文化交流の進展は基本的によいことだが、軽チャーだらけでいいのかなとも思ってしまう。)
しかし、「多文化共生は同化になる」と言い切ってしまうのは、議論の回路を閉ざすことにならないか。講師の言われるように「多文化共生」に代えて「異和共生」にしてもよいのだが、発想が思弁的すぎて普及しないのではないか。
結局、多文化共生を学ぶには前置きが必要で、ベリーだったか、統合・同化・分離・周辺化の4象限に分けての解説などをふまえて、慎重に学びを進めるべきなのだろう、と思う。
最後に、ちらっと「未開と文化」という話が出た。人類館事件が民族学、人類学、博物館学などの視点ではどうなのか、司会進行はたいへんになるけれど、もう一人か二人加えて、次回は対談か鼎談にしてほしいとも思った。