三津浜にて、子育て反省記
今年はよく愛媛の松山に行っている。もはや住人がいなくなった妻の実家があり、施設にいる義理の母に面会するのと、義父の墓参り、実家の片付け、庭の草抜きなどの用事があるからだ。在職中は夏休みしか行けなかったので、春・秋・冬の松山が楽しめるのはうれしい。
松山市は四国随一の観光都市である。歴史と伝統があり、保守的なまちではあるが、観光と活性化についてはチャレンジ精神を感じるまちだ。北摂では池田市も歴史がそれなりにあるのだが、どうもそのことにあぐらをかいてきたように思える。攻めるまちづくりは圧倒的に松山市の方が長じている。
家を出て伊予鉄道の郊外線に乗るとほんの数分で三津に出る。松山観光港ができる前は、ここが松山への玄関口となる港だった。いつも夏は暑いので、花火大会しか見られず、ゆっくり散策もしなかったが、今回は、朝方に小一時間ほど歩くことができた。
三津の渡し舟の看板を読むと小林一茶も来たと書いてある、三津浜港には正岡子規の石碑があるし、もちろん松山には夏目漱石と、国語に出てくる著名人が次々と出てくる。(ただし、『坊っちゃん』は松山のことを田舎だとバカにしているのだが…、それでも松山人には愛されている。)
以前、豊橋市や大阪市大正区の渡し舟について書いたが、ここも日本最短に近い距離の渡し舟ではなかろうか。
港山から三津に向けて乗ったが、港山には城があったらしい。たしかにかつての要衝だと思う。城址と神社の横から三津へ渡ると、おびただしい数の漁船がある。瀬戸内海は豊かな海だし、今もこんなに漁船があるんだ…、と感心した。
三津浜の街なかは、往年の活気を失い寂れてきたが、まちおこしのアイデアに長けた人が移り住んで頑張っていると聞いていた。実際に歩いてみると、古い建物が並ぶかと思えば新たな発想の店舗がぽつりぽつりと、かなり凸凹感はあるが、突然に壁画が現れたり、時々おや?と気付かされておもしろい。コロナ禍では苦労したのだろう、観光客の来そうな土日に絞ってイベントや営業をしているようだ。
商店街の入口で最も活気があり、まちおこしに貢献しているのは「正雪」という「じゃこ天」のお店だ。平日でも行列していた。魚の練り物を揚げると、地方により「てんぷら」とか「さつまあげ」とか呼び名が変わるが、「じゃこ」というのは小魚のことである。
よくある蒲鉾にはタラとかもっと大きい魚が使われると思うが、八幡浜市など南予の方では、「エソ」「ハランボ」といった10センチ程度の魚を丸ごと砕いて作る。なかには豪快に、洗濯機を使って小魚を砕いて作る店もあるそうだ。
だから、じゃこ天には、骨やはらわたも含まれており、少しガリッとするし、色はグレーになる。でも、ものすごい弾力があって旨いのだ。大阪でも東京でもこんなに弾力のある蒲鉾類にはお目にかかれない。はんぺんの対極にある。
三津浜にいる間は、東北の被災地めぐり以来、久しぶりに一人で海辺にたたずみ、しばらく波の音を聞いていた。
そして、考えたのは、前の晩に義妹と娘にいろいろきかれて振り返らざるを得なかった、子育て中の記憶についてだ。
やはり子育てするときは、親に自分がされたとおりにわが子に対しても接してしまう。
幼少時の私にとって、父は「恐怖の大王」といえば言い過ぎだが、ものすごく威圧感のある存在で、にらまれると常に萎縮していた。母は父に絶対服従だったし、父に怒られることはめったになかったが、私の心中に父は君臨し続けた。
後年になって、父にそのことを話したら「ええ…、そうだったかぁ…? そんなつもりはなかったけど…」と笑われたが、いま全く同じ答えを、つい私も子どもたちに対してしているのだから、シャレにならない。
その夜、娘にいろいろと糾弾された(とはいっても笑いながらだが)。なんでかわからんままに怒られた、おとんが怒って「メシは要らん」と言って家から出て行き、おかんは泣いていた…等々。「児童虐待」とか「DV」という語が頭をよぎる。よりによって娘は、児童虐待やDVを扱う職に就いている。
たしか一番上の子が小学生になる頃に児童虐待の「通報」という制度が出現した。泣き声の響くマンションの風呂場であせったこともある。
言い訳になるが、自分は子どもを自由放埒に育ててはいけないと思っている。集団生活をするからには、社会規範・公共マナー・人権意識といったことは、相手が泣こうがわめこうが、徹底して教えるべきだと今でも思っている。それが、短気を通り越して癇癪持ちだった私の性格と相まって、子どもたちに対してつらく当たってしまうことになったのだと思う。ごめんなさい。
もう一つ、ひとりっ子の私にとって三人の子育ては荷が重かった。きょうだいで争うどころか、きょうだいが居た経験が無いのだ。なのに、混乱しながらも三人を真っ当に育てないといけない、というのは相当プレッシャーだった。
親バカ表現になるが、みんな大人しくて真面目でいい子たちで、そんなに手はかからなかった。それでも親業をしている間は、自分が自分でなくなるような忙しさだった。
ひとりっ子の自分は、家ではいつも自由に時間を使い、誰にも妨げられなかった。それとのギャップに目が回り、若かったこともあってイライラしたり、人前でも平気で怒鳴ったりしたのだと思う。でも、「公恥にさらす」というのは、一番やってはいけないことだった。だから、本当に言い訳です、すみません。
結局、時系列で考えたとき、安定剤の力を借り、そして「アンガー・マネジメント」なる言葉も知り、やっと自分は性格的に落ち着いたように見えるのが、とてもふがいない。
もっと若い学生時代の友人関係での失敗は、その後の過程でなんとか許してもらえたり、取り返せたものが多いと思う。
しかし、親子関係は今もこれからも続いてゆく。恥ずかしながら60近くになってからの大失敗もあり、これは今でもこたえている。
おだやかな瀬戸内の海を眺めながら「でも、本当に怒ること減ったんやけどな…。まぁ、思うようにならないのが人生か…」と一人つぶやいた。