尼崎から能登へ ~映画『幻の光』~
能登半島地震への支援としてリバイバル上映されていたもの。制作された90年代前半は、私は子育て真っ最中で映画をほとんど観ていない。
なんの予備知識もなく行ったのだが、主人公は尼崎に住んでいて夫を亡くし、子連れ再婚で能登に向かうというストーリーだった。
私は尼崎生まれなので、工場街を写し出し、杭瀬や大物といわれると懐しい。
残念ながら能登をゆっくり旅したことはない。だが、冬の日本海の荒波を見るのは好きだ。わけもなくシャッターを押してしまう。
能登ではなく香住の民宿に、冬場よく行くのだが、民宿で空気清浄機、ウォシュレット、Wi-Fiなどが順次整備されていく一方で、ここも朝市や漁港はどんどん寂れていっている。
是枝裕和監督のデビュー作だそうだが、画がどれもすばらしい。どのカットも構図が安定している。どこを切り取っても、絵はがきにしたり、額縁に入れられそうな気がする。日本海の風景、しかも小さな漁港で、人為的な動きのない静謐なシーンが多い。
時々美術館にいるとふと思い出すのだが、現代人は何か動かないものをじっと凝視する時間が減ったと思う。そして、ここでは登場人物もよく何かを凝視する、だから横顔がよく撮られている。
色調についても、今ではもうあまり見られないものかもしれない。
ちなみに、いま写真業界は、レンズ製造など各社入り乱れて、カメラという機械そのものも単体では消えてしまいそうだ。
あくまで昔話になってしまうが、この映画の色合いは、写真でいうとかつてオリンパスのレンズが得意とした色合いだと思った。
土色、くすんだ色、はっきりしない色ばかり。キヤノンやミノルタは赤色などが眩しいくらい鮮やかに出るが、オリンパスはこういう地味な色に強かったように思う。(ニコンはお金がないので使ったことがない、苦笑)
さて、映画にはまだ「昭和」が色濃く残る風景が写し出される。まだ活気のある尼崎の工場街、まだ乗客のいるローカル線、にぎわう輪島の朝市。やはり画になる乗り物は、鉄道と船だ。クルマと飛行機はどうもダメだ。
しかし、これらの風景は30年たった今、ものすごく遠のいてしまったように思う。日本はどこもこんな風景だったのに、どんどん駆逐されて隅に追いやられてしまった。
鉄道高架下の小さなトンネルが何度も登場する。いまも大阪環状線などに多いが、宅配輸送など増える中できっと狭くて問題視されているに違いない。また、犯罪の温床として危険箇所点検のやり玉に挙げられていることだろう。
しかし、映画にはいまだによく使われる場所である。片隅の暗がり、そして向こうに見える光、誰が通るかわからないのにすれ違いが非常に濃密に感じられる空間。
同じ原作者(宮本輝)の映画『泥の河』もそうだったが、静かで、暗い、変化の少ない映画だ。いまでは全く流行らないだろう。
いまの映像はテレビドラマもそうだが、どれもめまぐるしく変化する。何かに急き立てられるかのようだ。ジェットコースターみたいで眼がついていけず、私は時々見るのをやめてしまう。
いまは例えば、タルコフスキーのような映画はきっと倍速で観られて、さらに視聴者からダメだしされるに違いない。実は、倍速で観ることこそが、映画というものを愚弄しているのだが。
主人公の江角マキコは、近親者の不条理な死について思い煩う役柄だったので、きりっとした眼が映えた。
ただ、関西弁は下手だし、能登の風景の中では少し格好が良すぎた。モノトーンの服を着ると余計に。裸のシーンが一瞬だけあるのだが、男女とも白いパンツというのも、近年見なくなったなと思う。
バックの音楽は抑制されているが、主人公の心象風景に合わせたように、ギターで始まりピアノを挟んでまたギターに戻る。
尼崎から能登に来たばかりの主人公に、波の音が「うるさいだろう?」と夫の内藤剛志がいう。
私は山の子なので、海辺に泊まる時は非日常でかえってワクワクして、波がうるさいと思ったことはない。でも、そうだな、これが毎日で、日本海の荒波だったら、さぞうるさいだろう。
マイカーが砂浜近くのほとんど波打ち際を何度も走る。このロケ地はいま地震でどうなっただろう…。
そして、肝心要の「光」について。この映画は日本家屋の暗い内部を何度も写し出す。窓越しの外はどんよりした曇り空の多い能登である。
いつも陰になるほこりや煤のたまった木の階段の隅、私も幼時にはじっとそういうところを見て育ったように思う。
谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』ではないが、こういう暗がりが私は好きである。いまは日本の家屋から本当に陰翳がなくなった。
静けさやゆったりした時間もなくなったので、もうおばけも住むところがないだろう。これらの喪失によって、想像力をはじめとする人間の幅を広げる感覚が失われた。
…と、そこへわずかに光が射す。そういうシーンが実に美しい。
それは貴重であると同時に何かの光臨でもある。そして、死へといざなうことにもなり得る。漁師が海原の果てに見えて誘われるという光、それは幻なのだろうか。それを見ている己れの生が幻なのかもしれない。