おっちゃんのこと
先日、大阪市住吉区まで懐かしい人に会いに行った。
私は、20才のときからちょうど40才まで、あるご夫婦の生活介護に出向いた。二人とも脳性まひで、私の役割は男性の風呂介護が中心だった。学生時代は週一回、仕事に就いてからは月一回のペースで、日曜夜に行った。
男性は車いすに乗っていて、不随意運動も結構あり、慣れるまで言葉も聞き取れないことが多かった。私が少し緊張したのは、車いすの乗り降りと、湯船に抱き上げてつかるとき。もっと緊張したのはひげ剃り(昔ながらの手動)だった。あと、なぜか風呂前後がタイミングになるらしく、大便の拭き取りなどをトイレでするのがならわしだった。
女性のかたは歩いていたが、手がうまく使えないので、器用に足の指でペンを挟んで手紙を書いておられた。洗濯物をたたんだり、ちょっとした家事は他にも手伝ったが、私が不器用なもので、ボタンをはめたりするのをもたもたしていると「あたし、健常者の人ってもっと器用やと思てたわー」と真顔で言われたこともある(苦笑)。でも、この頃の障害者は健常者と隔絶されていたから、健常者スーパースター幻想がきっとあったのだと思う。
生活介護ボランティアとはいっても、そういう感じはまるでなく、男どうし、飲み友だちと一緒に銭湯へたまに行く、と言う方がぴったりくるものだった。飲み友だちではあったが、私よりずっと年上で、たくさんのことを教えてもらったから、ずっと前から「第二の親父」だと思ってきた。
結婚されてすぐに私は定期的な介護に入ったのだが、名前をなんと呼べばいいですかときくと、「おっちゃんでええで」というので、亡くなってお棺に声をかけるときまで、ずっと「おっちゃん」で通してきた。
でも、どこにでもいるような「おっちゃん」という呼称は、親しみやすさの点ではよかったが、非常に稀有で個性的で苦難を乗り越えての人生を思えば、あまりにも本人の実像とはかけ離れた呼称だったと思う。少なくともこの人は、ただの「おっちゃん」ではなかったと言いたい。
養護学校(現・支援学校)の義務化より昔の人だから、小学校くらいの勉強しかわからん、と本人は言われていたが、障害がなかったら絶対エンジニアになっていた、というくらい理科系の人で、特に飛行機にはめちゃくちゃ詳しかった。私はコンピュータが苦手で、その基本的なことは半分以上、湯船につかりながらこの人に教えてもらったと思う。
自らの障害については、戦後すぐの混乱期、おっちゃんのお母さんが妊娠中に電柱を担いで肉体労働したらしく、それも影響したのかな、と語っていた。
他に、青い芝の会に出会って一人暮らしを始めたこと(しかし後年は運動団体から離れて独力で自立生活を送られた)、姉の結婚式に自分だけ呼ばれなかったことなど、生活史ともいえる身の上話を聞かせてもらった。
結婚されるときは不動産屋めぐりを一緒にした。が、このときは頭に来た。8月の暑い中、一日20軒まわったが、一つも紹介してもらえなかった。今もこの業界、古い体質が残っているように思う。
このご夫婦の人前結婚式で初めて私はビデオ撮影をした。当時は重くて熱かった。このあと自分の成長経験ともかぶることが多い。
いろんなところへ夫妻と一緒に出かけたが、介護者は一人いれば十分、というか一人しか手配できないので、その頃は、階段だらけの駅の前で立ち止まり、「すみませーん」と声をかけて、知らない人3人と、車いすを4人がかりで持ち上げるのが当たり前の風景だった。
香港・中国行きのピースボートにも一緒に乗船した。普通に申し込んで出発日を迎えたら大騒動になった。当時のことだから、車いすの障害者が何週間も、しかも船で旅行するなど前代未聞だったのだろう。
平和と人権を訴えるピースボートの本体である東京事務局にいた辻元清美に猛攻撃された。「毎日の介護者をそろえずに乗船するとは何事か、無責任だ」「いやいや、乗船してから同行するお客さんに声をかけて募るんや、それで見つからなかったら俺がやる、それより俺じゃなくて本人さんに言ってくれるか」などなど…。
オプションでは夫妻と別コースだったが、なんの問題もなく帰国できたし、夫妻はその後も機嫌よく乗船されている。あの騒ぎはなんやったんや…(笑)。
でも、上海で大型客船を着けられる港がなく(1984年当時)、小型船に乗り移って上陸したのだが、船から舟へ互いに波に揺られながら車いすで乗り移るのは、なかなかスリリングだった。
このとき上海で私が夫妻を撮った写真はベストショットだと思うのだが、今もアルバムに残っているのを見てうれしくなった。
その後、子どもがほしいことから、いろいろ治療を受けられた。新幹線に乗って東京の慶応病院まで同行したこともある。この頃はバリアフリーではなかったので、東京駅ではクモの巣の張ったおばけの出そうな地下貨物通路を通されて、げんなりした思い出がある。
あとは、日常使いの銭湯の番台に、気前のよさそうな明るい兄ちゃんがいるのだが、帰りがけに二人で挨拶すると、「あーりーがーとー、まぁ、夢だけでもええ夢、見いやー」といわれて、出口の外で二人で顔を見合わせたこともある。
無事にお子さんが生まれてからは、どこも同じだが子ども中心の生活になった。ただ、今でいうヤングケアラーにならないように、子どもに親の手伝いは一切させないようにされた。
そのためには、徹底して介護者を集めなくてはならない。折しも支援費やら自立支援法やら障害者福祉は激動期にあった。市大・府大の学生その他、たしか80人くらいが出入りしていたと思う。
時々ハローワークからも紹介を受けたが、学生と違ってろくな人が来ない、とこぼされていた。勝手に冷蔵庫のものを飲み食いする、お金を盗む等々。
私は見ていて、いつから自立障害者は雇用主や経営者になってしまったのだろう、これは向いていない人にはつらいよな…と思った。
いろいろな経験をさせてもらったが、40才で私が病休を取った時に介護者は引退させてもらった。そして、その後はあまり会えないまま、おっちゃんは急に亡くなられた。
晩年まで彼の部屋はオーディオ・パソコン帝国だったから、形見分けでCreamの“Wheels of Fire”やJanis JoplinのCDをもらった。退職するまでの間、なかなか仏壇を拝みにも行けなかったので、先日ようやく行ってきた次第。
苦労の甲斐あって子どもさんも成長し独立されて久しく、いまは連れ合いさんだけで一人暮らしをされているのに、ランチをごちそうになって帰ってきた。
他にも、大学時代の知人で墓参りできていない人が思い浮かんできた…。季節がよいうちに一度行っておこう。
(ヘッダーはおっちゃんが好きだった、みすず書房の詩集の表紙)