
現行フェミニズムに対する1人思考実験
まず、現代は男の分際でフェミニズムを語るなと言われそうなので、その肩書を名乗る人や女性に聞く事はしない、あくまでも個人的な思考実験による仮説に過ぎない内容である、が前提。
その上で思うのは、今のフェミニズムは敵と味方論の袋小路に入って、思想としても議論としても成立した光景を見た事が無い。
「男だから見てないんだ!」
と思われる方は申し訳ない、もう見なくて結構です。
どうしてそう思うのか?
母性と言うものに対する違う思想や意見を持った人間の建設的な議論が成立している光景を見た事が無い。
これに関してはGoogle検索でも直ぐ出て来る話を持ち出して恐縮だが、1918年頃に働く女性と子育てに関して、これからの社会はどうすべきかという論争、所謂「母性保護論争」が女性の中で繰り広げられた事がある。
1人の思想は、国家は母性を尊重し、妊娠出産、育児期の女性は国家によって保護されるべきだという「母性中心主義」を唱えていた(平塚らいてう)
それに対しもう一方は、その思想を否定しその思想は所詮形を変えた良妻賢母であり、奴隷道徳、依頼主義と断じ、「夫人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と女性の独立と自立を唱えた(与謝野晶子)
そこに、上記の両方の意見を部分的に認めつつも批判し、保護や自立かの対立の前に差別の無い社会でしか夫人の解放はありえないと言う社会主義的な思想を持つ人物の主張も加わる(山川菊栄)
さらにそこに良妻賢母主義的な立場の女性が、独立や自立という言葉に惑わされず家庭婦人(専業主婦)も金銭的報酬こそ貰っていないが家庭内で働いているのだから誇りを持つべきと言う主張も出る(山田わか)
それぞれがこれからの時代の女性像に対して違う思想や視点、理想を持って討論を行った歴史があるが未だに結論が出ていない。
男社会だから、こうした議論は男が潰すという論もあるだろうが、それはおかしい。
上記の問題を解決する為には社会を巻き込み国を動かす必要がある。
そして、これが一番大事なのだが世の中には男と女が存在している。
男を巻き込み、理解させ味方に付ける事が必要なのだが、現在の討論はどちらが正しいか、どちらが社会的に悪で敵であるかと言う二元論に陥ってしまっている。
黒か白か、善か悪か、だ。
自分の意見や主張が正しいという前提で、相手を自分の思想で納得させるかあるいは敵として排除するかという議論とも呼べない無駄話に時間を費やしている間に、男の大多数はその論争から降りてしまっているのが現在。
よく、男が女を弁えさせ邪魔し、男女平等や女の社会的進出を阻んでいると言う現行フェミニストが居るがそれは悪いがごく一部だ。
他の大多数の男性は、結論すら出せない論争に付き合う事も、協力する事からも「降りて」しまっているだけに過ぎない。
女性が無能であると言っているのではない。
社会と言う枠組みが、何より「男女平等」が理想と言うのであれば人類の半分を構成する男をその論争のテーブルに座らせるだけの議論の仕組みを作らないと、女の問題は女で解決してくれよで終わるし、そのまま戦後から現代まで何ら建設的な論争や結論が出ないまま、議論する事もなく今に至っている。
そうではない、と言うならば先ほど書いた論争を今でも行っているのだろうか?
保護、自立、社会主義的な思想、良妻賢母思想と言った根底から異なる思想を持った人間が対等にかつ平等に議論を重ねているのだろうか?
そこに社会を構成する為に必要な人類の半分を占める男性の参加はあるのだろうか?
女性だけで社会や人類が存続できるのであれば、男は必要ないだろう。
正直、男だけ絶滅しても構わないのだろうがそれでは人類そのものが不要と言う反出生主義の天下になるだけではないだろうか?
そして、先ほど書いた母性保護論争の根底は「女」の自立問題だけでは無い。
子を産み、それを社会でどう育てるかと言う次の世代の子供の未来にも関わる重要な議題でもある。
結婚する自由、子を産む自由の選択権は今の時代は女性にあるだろう、あって良いしあるべきだと思う。
本来の議論や討論は、それぞれ違う思想や理念をどう良い形にまとめて昇華し、社会や国を動かすかの下地なのだが、対立や戦い、異なる意見や思想は敵と見做し排除を繰り返す。
その手法は本来、あなた達が嫌う「男社会の男性的なやり方」でしかない。
そうしたかつての男たちが行ってきた戦い方を見ている大多数の男は、関わる事から徐々に降りつつある。
否定している訳でもない、馬鹿にしている訳でもない。
只、関わる事や協力する事から降りている男が増えているだけに過ぎない。
長々と書いたが僕個人の思想は
個人の問題を理想に変換し、社会問題にするならば、まず自分の中にある利害感情を捨て、己を律し弁えるべし。
利害感情を持ったままでは相手も利害感情を持つしかなく、そこには相互理解も無く、対立しか生まない。
結果的に、多数決という安易で小数を切り捨てられる決定方法しかなくなるが、その少数と多数は時代の変化で簡単に入れ替わる。
その被害を被るのは次の世界に生きる子供や若者である。
まぁ・・・通じないんだろうなぁ・・・オスは黙ってろ!なんだろうなぁ・・・と自分の中で諦めの感情が払しょくできないので以上