変化を求める前に、まず変わらないことを受け入れてみようかな。。
元も子もないけど、そこに希望もあるという話。
「もっといい世の中になったら」、「世の中に平和が戻ってきたら」、「次世代に明るい未来を」みたいな思いや言葉を当たり前のように受け止めていたけど、今までを振り返ると、世界のどこかで常に争いごとがあって、災害があって、一方今の暮らし最高って思ってる人もいて、全体で見たら世界が変わったことなんかなくない?って気づく。幸も不幸も消えたり現れたりするんじゃなくて、流動的に場所や形を変えているだけ。
僕らは世界平和を願ったりするけど、実際には自分の視界内の世界で争いごとが起こらなければ、それを平和と言ってしまったりする。
人生山アリ谷アリ
っていう言葉は、どうしようもなくその通りなんだ。その山と谷の高低差を縮めることを安定した生活と人々はいう。でも、安定した生活にたまに訪れる予期せぬ小さな「不安定」に対してはめちゃめちゃ「不安定」だったりする。僕自身の人生でも、社会的な責任を負わなくてよかった幼少期も、会社員として収入も生活パターンも安定した人生も、毎日が全く定まらない音楽家としての人生も、結局、山アリ谷アリだった。
「結局何も変わらないじゃないか」
この絶望に何回も悩まされた。いつか訪れる「問題がない世界」に希望を持っていたから、生きる活力があったのではないのか。
僕はなんのために生きているというのだろう。
これは永遠の問いであり、答えが一通りでおさまったことは今のところない。だけど今僕が見える世界こそ真実なんだとしたら、僕は今こういう風に捉えている。
自分の人生はおそらくトレーニングセンターのようなものなのではないか。
自分の世界に現れる数々の問題は自分に課された課題であり、その評価は実際に問題が解決されたかではなく問題にどのように取り組んだか。そして取り組んだことで変わるのは世界ではなく自分だ。これを成長というのでは。
では、なんのために成長しないといけないのか。どうせ世界も変わらないなら、わざわざ自分に厳しくする必要もないじゃないか。それはそれでいいんだと思う。色んなことに一喜一憂してその度に精神的ダメージを受けるのもよし。だけど「問題はどのみち起きる」前提で、それに対して自分は一喜一憂せず、ニュートラルな状態で森羅万象と付き合えれば、そもそも問題を無くそうとする必要もなくなる。だから僕は後者を選びたい。
そして、その先に実は希望があったりするとも思う。この世の中で起きている社会問題なんかは結局その問題を無くそうとするエネルギーと対にある抵抗力で維持されているものだったりすると思うから。
問題を無くさなくていい。問題と付き合えるように自分を成長させる。その結果として問題が存在意義を失う。
最初は身の回りの問題からそうなっていく。そして、そのうち同じような生き方の仲間ができてもっと大きな問題にその効果が波及していく。
その先にもしかしたら社会問題や環境問題もあるかもしれない。でも目的はそこじゃない。「本当の自分が適応できる世界」の範囲を広げること。それだけでもいいんだと思う。