スタァライトにおける劇中劇と芝居 —シェイクスピア劇を通じて—
Akatuki
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序
『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の独自性とは何か。本作は我々に何を伝えたかったのか。このような問題はあまりに漠然とし、またあまりに大きすぎる問題である。抽象表現を多用し、理解の追い付かない速度で莫大な情報量が押し寄せる本作(*1)は、我々に強烈な{歌劇} 体験をもたらす一方で、多くの謎に満ちている。とはいえ、そのような表現の一つ一つを紐解いていく中で本作の構造の一端を垣間見られるのではないか。
本作の中では『スタァライト』を始めとする別の作品が登場人物たちによって演じられている。彼女たちが演じている時、作品世界の中に次元の違ったいわば小世界が作り上げられ、場面に潜在的な重層性が与えられる。このような入れ子構造は劇中劇と呼ばれる。
本作にはこの様な劇中劇構造が多く見られ、作品を構成する重要な柱となっている。とりわけ、本作で99期生が卒業公演として演じた『スタァライト』(*2)はこれまでに繰り返し演じられてきた戯曲であり、より一層の意味を含んでいる。この構造を深く解釈することで本作の持つ独自の特徴、特にこの作品において「演じる」とはなにかを読み取ることはできないだろうか。同様の構造を持つ過去の作品と照らし合わせつつその特徴を探っていきたい。
*1 特に断りがない限り「本作」は『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を指す。
*2 『』は戯曲名を指し、スタァライトの戯曲本とは区別する。
Ⅰ
歌劇を題材にした本作と深い関わりのある人物として、ウィリアム・シェイクスピアがいる。彼がブリテッシュルネサンスを代表する劇作家である事はもちろん、作中でも星見純那が彼の発言を引用している。海上探検や宗教改革など、各地でムーブメントを起こしたルネサンスが少し遅れてイギリスに到来した時代、この時流に乗りエリザベス女王朝の一切の文化を演劇の上にまとめあげたのがシェイクスピアであった。
エリザベス女王朝のイギリスにおいて、この世界を舞台とみなしそこに生きる人間はみな役者であるという考え方があった。自らを取り巻く世界に意識を向け、人生に対して積極的に向き合おうとするもので、この概念は「世界劇場」と呼ばれる(*3)。このように、「人生は舞台、人は役者」 であるというこの概念は、やはり演劇と密接に関係していて、シェイクスピアの戯曲に度々現れる。
このような、「世界劇場」の考え方は劇中劇構造と深い関係性がある。劇中劇は登場人物に劇そのものの構造への意識を与える存在である。劇中劇が登場人物にとっての小さな世界となることで、劇自体の大きな世界が彼らの意識に取り込まれるのである。そして、劇中劇構造は、観客に対しても、自らが人生という舞台の役者であることを意識させる。
*3 中央公論社『シェークスピヤ入門』東京、中央公論社、(1934)
Ⅱ
ここまで劇中劇構造の持つ演出効果について「世界劇場」の概念と共に述べてきたが、これを本作レヴュースタァライトに当てはめて考えていく前に、今一度劇中劇の意義をシェイクスピアの文脈から読み解いていきたい。
土肥直記(1992) は『A Midsummer Night's Dream(夏の夜の夢)』(以下『M.N.D.』) 『Hamlet』の分析を通じて、シェイクスピアにとっての芝居が持つ鏡に似た性質を述べた(4*)。
劇は、役者が特定のイメージを創り出し、観客が想像力を働かせてそのイメージを共有することで成り立つ。ならば、劇の中に劇がある場合、すなわち劇中劇においてはどうなるか。劇中劇は物語の世界で独立した虚構の世界となる。従って、この虚構の世界のイメージを役者や劇中の観客の間で共有することが劇中劇を行う一つの意義といえる。
また、劇中劇の内容は話の本筋の再提示となっていることが多い。『スタァライト』もその例にもれず、華恋とひかりの関係の再提示となっていることは明らかだ。シェイクスピア劇にも多くの劇中劇が現れるが、その中でも『M.N.D.』と『Hamlet』は劇中劇の題材として話の本筋の再提示となる悲劇を扱いながら、前者においてはそれを喜劇に、後者においては悲劇に仕立てている。ここでは、二つの作品を紹介しつつ劇中劇のそれぞれの作品での扱われかたをみていく。
『M.N.D.』は、シェイクスピアの有名な喜劇の一つで、恋愛と結婚をめぐっての、父と娘の、さらには恋人同士の対立、葛藤の物語である。しかし、第四幕でこの対立は和解し、物語としては完結してしまう。これに続く第五幕は、和解によって実現した若者たちの結婚式の場面で、ここで演じられる余興劇こそが劇中劇『ピラマスとシスビー』である。一見すると第五幕は単なる付け足しで、役者の顔見せ程度の意味しかないように思えるが、そうではない。この劇中劇は男女の悲恋物であり、物語の主筋の再提示となっている。しかし、第五幕では役者は自分の役になりきらず、おどけながら演じることで、原話の持つ悲劇性はうまくパロディ化され陽気な余興劇となる。主筋を劇中劇でパロディ化して再提示することで、若者たちの結婚に新たな意味を付与し、再強化している。劇という虚構の中で破局に終わる恋をあえて示し、反面教師的にあるべき恋の姿を示しているのだ。
一方『Hamlet』では、劇中劇がまた異なる現れ方をする。『Hamlet』はデンマークの王子ハムレットが、父王を毒殺して王位に就き、母を妃とした叔父クローディアスに復讐する物語である。ある日亡霊から国王殺しの真実を聞いたハムレットはそれを確かめるために、同じく国王殺しを扱う劇中劇『ゴンザーゴ殺し』を上演し、観客としてクローディアスと観劇する。劇を通してハムレットはクローディアスの反応を観察し、亡霊の言葉が真実であることを確信し次第に復讐の念を強めていく。一方で、クローディアスもまた劇を通じてハムレットの視線を意識し、ハムレットを殺害する陰謀を企んでいく。
『Hamlet』において劇中劇は、国王殺しという悲劇のイメージを共有するだけでなく、ハムレットとクローディアスの視線の交錯を生むきっかけとなっている。このような劇中劇の特徴を、土肥は『Hamlet』でのハムレットの台詞から「鏡」と表現している。
『Hamlet』において、交錯する二つの視線が互いを映し出し緊張感の伴う「見る—見られる」の関係を作り出すように、劇中劇は視線の交錯を生む鏡となる。また、劇中劇は本来あるべき姿、あるいは、あるべきでない姿を我々に再強化した形で示す。
*4 土肥直記『Hamletにおける“Reality Reminder”としての劇中劇—A Midsummer Night's Dream との対比において—』『主流』53、同志社大学英文学会、(1992)
Ⅲ
いよいよ本作レヴュースタァライトにおける劇中劇構造について、これまでの話を踏まえて考えていきたい。本作では題名がはっきりした三つの劇中劇が演じられている。タイトル後の場面で華恋と純那によって演じられた『遙かなるエルドラド』、劇団アネモネ時代の華恋が演じた『青空の向こう』、そしてwi(l)d-screen baroque(以下WSB) を通して演じられた『スタァライト』である。いずれも我々の住む現実世界に存在しない、本作のためのオリジナル作品であり、何かしらの意図が込められていることが想像できる。前二作を先に考察し、それを踏まえつつ本作の要である『スタァライト』に論を移したい。
『遙かなるエルドラド』はオープニング明けの99 期生進路調査面談の場面がオーバーラップされる中で、新入生への実演として演じられる。
この劇の詳細な内容に移る前に、サルバトーレの最初の台詞に注目したい。
まさに、先述した「世界劇場」の概念そのものである。劇中劇構造自体が世界劇場の概念を観客に与えると前で述べたが、この台詞はそれをより確かなものとしているのは言うまでもない。彼女たちは演じながら生きる存在であり、人生もまた一つの戯曲なのである。
さて、『遙かなるエルドラド』全体の内容は寮の場面で天堂真矢が読む冊子に載っている。
二人が演じるのは、全てを裏切りイスパニアを発とうとする主人公サルバトーレを親友アレハンドロが止めにかかる一場面である。
サルバトーレの裏切りに困惑するアレハンドロの構図は、まさしく「二人でスタァになる」約束を捨てロンドンへと旅立ったひかりに対する華恋のそれと一致する。そのため、華恋が今おかれている状況を再提示するような劇となっている。かつてTV版第11話で神楽ひかりが幽閉され華恋のもとから離れた際、華恋はキラめきを失い演技に身が入らなくなってしまっていた。対して、この劇での華恋の演技は拍手喝采を浴びるような鬼気迫るものであり、第100回聖翔祭で舞台少女としての死と再生産を経た彼女なりの成長が伝わってくる。華恋はアレハンドロ役を演じ、その役柄を自分に重ね今の自分の状況を強く自覚する一方で、自らの進む道に苦悩する。そして、自らが直面する問題の自覚と、この劇の観客である大場ななとのイメージの共有が「自分だけの舞台」を探すというアクションを導くことになる。
一方で純那は演技に身が入っていない。華恋の演技に圧倒され、下級生たちが拍手を送るカットでは舞台からおりたところで見守っている。つまり純那は“ちゃんと演じる”ことができていなかった。親友と別れ自らが信じた道を進もうとする覚悟に満ちたサルバトーレ。その姿は「皆殺しのレヴュー」以降で示される、次の舞台に進む覚悟を持った舞台少女と一致するが、純那は役になりきれていない。さらにはそんな自分の姿から目をそらしていることも読み取れる。
『遙かなるエルドラド』のこの一幕は『スタァライト』と同じく別れの悲劇である。TV版で乗り越えた『スタァライト』という悲劇が、姿を変えて再び華恋たち99期生の前に現れ、そのイメージが共有された。『遙かなるエルドラド』は彼女たちが進む道の分岐点として存在し、本作全体の問題提起も担うのである。
次に演じられる『青空の向こう』は残りの二作ほど詳細な台詞や内容について作中で示されていない。大まかに示される話としては、様々な困難に立ち向かいながら仲間と共に“青空の向こう”を目指す冒険仕立てのものである。愛城華恋(12歳)は主人公セイラ役を演じる。仲間と共に目的地を目指すこの劇は、仲間と決別し目的地エルドラドへと向かう『遙かなるエルドラド』と対照的だ。奇しくも『遙かなるエルドラド』で船に乗ってエルドラドを目指すサルバトーレと同じく、セイラたち一行も船に乗って目的地を目指す姿がこの劇の最後の場面で描かれている。孤独なサルバトーレと仲間に囲まれたセイラとの対比は、TV版から描かれてきたスタァは一人か二人かという問題の構図に一致する。
『青空の向こう』は愛城華恋(12歳) の内面がイメージとして表れている。孤独なスタァではなくみんなでスタァになろうとする華恋の心情が示され、「二人でスタァになる」約束を華恋が大事にしていることが伝わってくる劇中劇である。
Ⅳ
さて、本作の核心である『スタァライト』に移る。本作における『スタァライト』の枠組みは他の劇中劇と比べて曖昧である。「世界劇場」の概念を拡張させれば、彼女たちの集大成となる第101回聖翔祭での『スタァライト』は彼女たちの人生そのものであり、本作のすべてが『スタァライト』であるとすら言える。一方で、WSBテロップや衣装を根拠にWSBの開幕から閉幕までの各レヴューのみを『スタァライト』とすることもできる。
本作で『スタァライト』を特徴づけるものに死と再生産の構造がある。TV版では、物語前半で神楽ひかり・大場なならによって提示された舞台少女の死のイメージと、そのアンチテーゼとして華恋が提示した舞台少女の再生産のイメージが存在した。舞台少女の死のイメージとは本作の言葉を用いると「キラめきを失う」こと、すなわち舞台への情熱を失うことである。一方で、舞台少女の再生産のイメージは複雑である。本作の根幹となるテーマであるため、とても数行で語り切ることはできない。ここでは一つの大まかなイメージとして、再生産とは自分と向き合い、そして再び舞台に立つ覚悟をもち生まれ変わることであると考える。
TV版で示された『スタァライト』のイメージはこの死と再生産の構造である。第100回聖翔祭で共有されたこのイメージは劇場版である本作にも引き継がれている。とりわけ本作では、レヴューひとつひとつにこの構造が組み込まれている。目を焼かれたクレールが塔から落下したように、彼女たちの舞台少女としての死は塔と落下によって記号化された。死と再生産の構造は、一見関係のないレヴューを『スタァライト』たらしめ、かつそれぞれ独立した一つの戯曲とさせている。まさしく、これはオーディションにあらず。
この死と再生産の構造は「再生産のレヴュー」で他のレヴューとは異なる現れ方をする。まず、開幕から二人の口上の前までは他のレヴューと同じく死と再生産の構造が描かれる。華恋は自らの進むべき道を見つけられず舞台で倒れ、ひかりに塔から落とされ、そして生まれ変わり列車に乗って舞台に帰ってきた。これまで繰り返し示されてきた死と再生のイメージが、むしろより鮮明に描かれている。
しかし、ここまでは第100回聖翔祭の繰り返しである。ここまでは新章の続きでも、華恋にとっての“私だけの舞台” でもない。
口上から閉幕にかけて、これまでにないイメージとして再び舞台少女の死が提示される。再生産を果たした華恋を、スタァのキラめきで再び死なせてこの舞台の幕は下りる。しかし、この死はこれまで提示されてきたものとは異なる。これまでのひかりが示したスタァのキラめきによる絶望をもたらす死ではなく、その死と華恋が示した再生産を合一し得られた、再び生まれ変わることを期待した死である。
第101回聖翔祭での『スタァライト』は新たなイメージとして、このいわば「希望の死」のイメージが共有され、そして次の舞台へと自らを再生産させ彼女たちは進みだす。それに伴い、彼女たち舞台少女の人生という劇の一つの場面の終わりとして本作の幕が下りる。
Ⅴ
以上シェイクスピア劇を通しつつ本作の劇中劇構造を考察してきたが、総じて本作において「演じる」とは何であろうか。思うに、「演じる」とは自分と向き合うことであると考える。演じることで自分のあるべき姿やあるべきではない姿が見えるようになり、時にはそれが自信に、時には絶望につながる。しかし、それらから目をそらし演じることをやめてしまえば、苦痛からは逃れられるが自らを再生産させることはできなくなる。拒絶せずに劇に向き合い、自覚をすることこそ“演じる” ということに込められた思いである。
舞台で演じ続けるために次の舞台へと。彼女たちはあらゆる苦痛を受け入れ力強く進もうとした。その姿は我々観客に人生という舞台で、あるべき姿を示した。
参考文献
最中五郎. “世界劇場問答”. はじめてのシェイクスピア. https://ovid.web.fc2.com/todok/mondo/mondo.html, ( 参照 2022-05-25).
松岡和子訳, 『シェイクスピア全集1 ハムレット』,1996, ちくま文庫
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