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映画『フランシス・ハ』
2012年/製作国:アメリカ/上映時間:86分
原題 frances ha
監督 ノア・バームバック
予告編(日本版)
予告編(海外版)
STORY
ニューヨーク・ブルックリンで親友ソフィーとルームシェアをする27歳の見習いモダンダンサー、フランシス。ダンサーとしてなかなか芽が出ない上に、彼氏と別れて間もなく、ソフィーとの同居も解消となり、自分の居場所を探してニューヨーク中を転々とするはめに!
友人たちが落ち着いてきていることに焦りを覚え、自分の人生を見つめ直し、もがきなあらも前向きに歩き出そうとするフランシス。不器用で大雑把だけどチャーミングな彼女の姿に、誰もが共感を覚え、心が軽やかになり、不思議なタイトル❝フランシス・ハ❞の意味が明らかになるラストに胸を打たれる。
レビュー
主人公のフランシスの食べ方はめちゃくちゃ汚い。
女としてというよりも、人として最低のレベルにある。
でも……、それがいい。
カワウソが川魚を両手でつかみアグアグムシャムシャと食べる動画を観てムラッときてしまう人は案外多いのではないかと思うのだけれど、フランシスがベーコンエッグ・ベーグルにカワウソよろしくカブリつくシーンが不意打ちで画面に映った瞬間、私は反射的にムラッときてしまい、何とも言えない解放感と快感、そして背徳感に襲われ、恍惚とした表情を浮かべながらまるで何かに取りつかれたようにそのシーンの巻き戻しと再生を繰り返してしまった。
私がガツガツとした食事シーンを偏愛してしまうのは、その幼少期に原因がある。食事や茶道の作法を余りにも厳しく躾けられたことによる呪縛(トラウマ)があるのだ。ゆえに本作の食事シーンに思わず喰いついてしまったのは解放感と快感、そして背徳感以外にも、自分がそういった食べ方を決して人前で実行することの出来ないことによる、ある種の妬みにも似た憧れもあったのではないかと思う。
で、何が言いたいのかというと「そういった面白くて可愛いシーンが満載なので中々におすすめの作品である」ということを言いたいのだ(ペンギンみたいな歩き方をするシーンもあり、そこも可愛い!)。
というわけで、あっけなく結論へと辿り着いてしまったのであるけれど、まだまだ記したいことはあるので、もう少し思いのままに綴ることにする。
フランシスは性格が良く、天真爛漫且つ野性的な感覚の持ち主なのであるが、その感情の動きが音楽により巧みに表現されるものだから、観ているうちにアッと言う間に彼女のリズムを吸収し、好感の波が打ち寄せて、同化してゆくような感覚に陥る。のだが、フランシスには当然ながら弱点もあり、「片付けが苦手」「現実から目を背けて自らの想像や妄想を現実であると考える傾向が強い」「他人の前でついカッコつけてしまう」「親友に精神的に依存し過ぎている」「場の状況を考えずに自分の世界を披露して失態を繰り返す」「ダンサーとしてのプロ意識が足りない」「品が無く色気も無い」「喫煙&ポイ捨て」等々色々あって、それはそれで「仕方なかろう……」と思いつつも、しかし自分を見ているような気にもなって若干滅入りつつ、でもやっぱりなんだかんだで好感を持ってしまう。
ちなみに、良い部分は悪い部分よりも沢山あって「サバサバしている」「困っている他人を放ってはおけない」「とにもかくにも前に進み続ける」「空回りもするけど一生懸命」「お金に執着しない」「他人を見下さない」「元気いっぱい」「読書家で行動力もある」「精神的にタフ」「明るい性格」等々という具合である。
ただしそのフランシスの良い部分というのは、世界の大都市に住む多数派の人々やシステム等と、イマイチ折り合いが悪いのだ。なので人々の多くはフランシスのような型破りな人物とは距離を置く傾向にあって、それゆえにフランシスは様々な面において綱渡りのような状況に置かれてしまうこととなり、その綱として機能していたのが親友なのであるけれど、その親友がフランシスとの借家のシェアを突然に解消する決断をしたことから(親友は共依存的な友情よりも自らの人生を最優先とすることをアッサリ決断)、フランシスは見て見ぬふりをしてきた現実の自分と向き合わざるを得なくなってしまったのである。
誰だって理想の自分を見ていたいという願望は少しはあるのではないかと思うが、それがある日突然に、完全に現実的な自分と見つめ合うことを余儀なくされてしまうというのはとても×2ツラく過酷な、そして恐ろしい経験なのではないだろうかと思う。
物語は、友情、理想と現実、仕事と私生活、棲み処の確保(フランシスの自己の確立具合のメタファーとしても機能している)、恋愛(スパイス程度)、を軸にして描かれてゆくのであるが、その全ての過程においてフランシスが「自分なりのバランスを見出そうと奮闘する姿」が、最大の見所となっている。
話は飛ぶが、本作の主演であり脚本にも携わっているグレタ・ガーウィグは、ここ数年の間に『レディ・バード』『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』『バービー』という人気作の脚本・監督を立て続けに成功させていて、大衆の心を掴むバランス感覚に稀有な才能を発揮している。常に観客を意識し、自分の作家性を薄めることをいとわずに親しみやすい娯楽作へと仕立て上げ、きっちりと商業的な成功を収めて地位を築いてゆくその仕事ぶりは、ある意味凄いなと思う。
そういった才能が輝きを放ち始めた瞬間が、本作には封じ込められているような気がするし、現在の位置から見るとフランシスとグレタ・ガーウィグの人生が見事に重なるようで、そういう部分も、観ていてとても面白い。
話を戻そう。
フランシスは本好きなのであるが、本好きは読書に多くの時間を費やすため、直接的な人間関係の時間は必然的に少なくなる。ゆえに場の状況を上手く読めないことも多く、会話のキャッチボールを上手く出来ない状況も多発する。また相手の意図を感じる能力は高くなるため、必要以上に敏感に察してしまい、結果的に相手を拒絶する傾向が高まってしまうことも少なからずある。そのような失敗は経験を重ねることにより徐々に改善の兆しを見せ、最終的には豊かで魅力的な会話を楽しめるようになってゆくと思われるが、その過程はとても痛々しく(現在の自分とも重なって)観ていて何度も顔が赤くなってしまった。
しかしながら読書は、相手(著者)の意図を考えながら他人の話に耳を傾け続けるという謂わば「傾聴」に似た特徴があることから、理解力や想像力を高める効果があると言えるし、最終的にそれらは創造力へと繋がってゆく可能性もあるため、そのような行為を好むフランシスは振付師に適正があるというのは納得の結論であった(振付師の適正に関しては他の行為などを通しても明確に描かれていたし、ダンサーに関する適性も明確に描かれていた)。
それにしても本作は、ダンサーを目指す女性を描きながら実は本好きな女性を描いた作品でもあり、なかなかに稀有な作品であると思うのだが、如何であろう(『フランシス ハ』や『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』を観れば、グレタ・ガーウィグが100%読書好きとわかりますよね)。
あと、何気ないセリフが重要な伏線となっていたり、ちょっとした行動がしっかりとメタファーとして機能していたり、それとなく撮っているように見せかけてはいるものの、実際は画面の構成もバチバチに意図を持って選び抜かれているため、繰り返し観て楽しむことの出来る良作であると感じた。
最後に、もっとも印象に残ったフランシスのセリフを記してレビューを終える。
招かれた場違いな集まりで、仕事仲間の友人(その日初対面)に対し、唐突に話し出すセリフ。
※正確ではない可能性が有ります
「私が恋愛に求めるのは、ある特別な瞬間なの。だから恋人がいないのかも。ハハッ(笑)。重要なことなの。誰かと同じ空間にいて特別な存在であることが自分も相手もわかっている。でもそこはパーティーで、お互い別の人と話をしている。笑って、楽しんで。そんなときにふと、部屋の端と端で目が合う。嫉妬でも性的な引力のせいでもない。それはお互いが、この人生での運命の人だから。不思議で、切なくて、人生は短いけれど、そこに2人だけの秘密の世界があるの。他の人達からは見えない。私達の周りにはそんな次元がある。ただ、それには気づいてないけれど。それこそが、私が恋愛に求めるもの(一瞬上を向いて考えて)、人生にかな、愛にかも……。なんてね。なんかハイな人みたい。(ぷぅっと息を吐いて)んへへ(笑)、違うからね(クスリはやってないという意味)。ごちそうさま。(家に)帰るね」
27歳にしてこのピュアなセリフを本気で言えるなら、その人はきっと、素敵な人に違いない。