嫌いな映画「ヒトラーのための虐殺会議」
どうしても許せない、嫌いな映画がある。昨年日本でも公開された「ヒトラーのための虐殺会議」である。
映画の内容は看板に偽りなく、ナチスの幹部達がいかにしてユダヤ人を効率的に殺すかを議論した「ヴァンゼー会議」という史実を淡々と描いている。
公開当時の私は学校教育やニュース、SNSで聞きかじった知識でないものを身に着けたいと思って見に行ったのだった。
感想を率直に書こう。
頭がおかしい。国力を尽くして戦争を行う傍らで、「いかに効率的に自国民を殺すか」という内容の会議をするなど正気の沙汰ではない。
それなのにこの会議で決められた内容は実行力を持ち、現実の人々を虐殺していったという事実が、ひたすらに重苦しい。
結局、私は"虐殺"や"ホロコースト"という言葉の解像度が低かったのだと思う。知っているつもりで、理解とは程遠かった。
この映画は地に足のついた内容として真面目に虐殺の方法を議論しているが、その前提は常軌を逸しており、まるで徒歩で月に行く道程を真面目に話している人々を見ているようだ。だから「ああ、月に行くためにはまず丈夫なシューズを買わなければいけないのか」というような、考えたこともない発見がある。それが史実を”知っている”ことと”理解している”ことのギャップを埋め、ホロコーストという現実を身に迫るものとして考えさせるのである。
例えば、
「ドイツ人とユダヤ人の混血児は生かすとして、その親のユダヤ人は殺すべきか?ではその家族に何と説明する?」
というような議題がある。
この台詞を聞いたとき、愕然とした。家族を家族と、人を人と思っていたら絶対に出てこない言葉だろう。
「死体をどう処分すればいい?」「予算はどこから出す?」「どの部署が責任を持つ?」
そう、虐殺だって事業なのだ。人間が関わり、仕事をしなければ成せないことなのだ。これらは私が普段オフィスで発している言葉とまるで同じ種類のものだった。こうした台詞の群れにくらくらし、完全に心が負けてしまった。
持論だが、このような会議にまで至ったのは、ナチスが積極的に広めていたという優生思想が大いに関係していると思う。あれを振りかざしているうちに、人間と人間の優劣を考えるようになる。劣った人間は排除するという思想は、やがて民族ごと滅ぼしてよいという考えにもつながっていく。
だが、自分にその一片でもないと言い切れるだろうか?いや、出来ないのだ。心のうちに「劣った人間」という分類を作り、他者をそのようにラベリングする自分を捨てられないままでいることを、私は認める。
この映画は終始穏やかでビジネスライクだ。爆発的な感情の描写はほとんどなく、「将校達が日常的に行う退屈な会議」とすら要約できるだろう。そうした日常の延長がホロコーストにつながったということを、まざまざと見せつける映画なのである。
この映画を見て以来、自分の甘ったれた無知を突き付けられたショックが消えず、ずっと胸に抱えている。だから許せなくて、嫌いな映画として覚えている。
「関心領域」を見たいと思いながら、この映画があまりに嫌い過ぎて積極的に映画館の席を取る気になれなかった。
関心領域も、どうにか、見てみたいと思ってはいるのだが…。
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