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隙あるworking mother。

「なんのために働いてるんだろう?」

友人が、そう思いながら育休明けで仕事を頑張っている。これは、働きながら子育てをしている人でなくても誰もが一度は思ったことがあるのだろうが、特に、ここではワーキングマザーに当てはまる人のことを考える。

ワーキングマザー

3ヶ月前までの私もそうだった。正社員、フルタイムで働き、収入を得ていた。そもそも子どもを育てながら働くことは、周りの協力なくしてはできない。職場環境や周囲の協力体制にもよるし、根本的に休みを申し出る時の態度などにもよるのかもしれないが、子どもを理由に仕事を休むことに、全ての人が納得できるわけない世の中だ。子どもが1日で風邪が治るわけないのに、連日休みにくいのも事実だ。以前、保育園で働いていた時も、こんな咳も鼻水も微熱もあるのに子どもを預けて仕事に行く?流石に子どもは保育園休みだけど自身は休まず病児保育に預けたらしいよ…保育士さんたちは休憩中によく話していた。その親自身を責める人もいたし、結局は国が悪いというところに落ち着く人もいた(私はこの人に救われた気持ちになった)。とにかく問題は大きく拡がっている。働かないとやっていけないほどお金がないなら始めから産むなと言う意見もあるが、もう産まれている命を思うと悲しくなる。だからこそ性教育や避妊を…と言う話をしたいのでもない。


母親になった。働き続けるか、働かないか。

経済的になんの心配も不安もないなら、働かなかったのか。少なくとも当時の自分にとっては働くことは当たり前だった。母親になってもそれは変わらなかった。自分が小さい頃は母も共働きで忙しくしていたし、出産後に職場内の異動はしたが働かない選択肢はなかった。

勤めている6年間の間に、命を2つ授けてもらい、産休育休(二人目の時は育休なし)を挟みながらも働いた。夫や祖母、保育園がなかったらできなかったことで、これからも感謝し続けていく。それでもその6年間は、“〜しなければならない”だらけだった。

夫の仕事で引越しが決まり、私も仕事を辞めて、子ども達も転園、自分の家族とも離れることになり子育てを応援してくれていたものはなくなった。ちょうどその頃にstayhomeになった世の中が始まり、私は決めたのだった。

〜しなければいけない。では、もう動かないぞ。と。

〜したい。で、動くぞ。と。

それができたらいい。なにを甘いことを言ってるんだか。

でも、忙しく生きていた時に“〜しなければならない”だらけだった私は、今、“〜したいからする”余裕をもらった。

気持ちがいいから洗濯する。掃除する。着るものは畳んであると嬉しいから畳む。ご飯は美味しいものが食べたいから、買い物に行って、つくる。面倒な時は、もうやらない。家族がソファでくつろいでいる時は、遠くで見つめたい時は見つめ、自分も入りたければその輪に入る。

実践してみたところ、あぁ・・・これだ。と感じている。断然気分がいい。意外と生活も回る。

仕事も子育てもそうすればいい。

でも想像してみて気づいた。

仕事も子育ても、“〜したいからする。”だけではやっぱり成り立たない。どちらも一人ですることじゃないからだ。

仕事には相手がいる。一緒に色んなものをつくり、自分のする仕事を持っている。

子育てにも当然ながら子どもという相手がいる。一緒に色んなものをつくり、存在自体を必要とし、待っている。

だから生まれるものがある。

その二つをバランスよく両立させること、なんて高度な技術が求められることだろう。

子育てに集中するってこういうことなのか

今になって、紐解くように気づいている。

平日は子どもを幼稚園バスの見送り、お迎え。二人の話す姿、後ろ姿を見るたびに、「あぁ。こんな生活がしたかった。」毎日そう思う。小さい頃、共働きだった母が家に帰って出迎えてくれるってことはなかったことを、さみしいって気づいていなかったけど、今ははっきりと寂しかったんだと思う。自分の子どもたちには味あわせたくない感情とまではいかない。世の中にはもっと寂しい子どもが沢山いるし、その子達の気持ちを微塵も知ることのない人ではないことを誇りにさえ思う。でもいまだに小さい頃に母がずっと家にいて、専業主婦を楽しくしていたらよかった、なんて考えてしまう。何がどうよかったんだかはわからない。

子どものあれしてほしいこれしてほしいを全て叶えてあげるのではなく、どうしたら自分で考えてできるようになるのかを考慮した上でやる気を無くさないで自信を育ててあげられるような声かけを行う。今は体が疲れていて甘えたい気分なんだなという気持ちを子どもの言動から汲み取ってスキンシップをする。忘れ物をして周りの子どもたちが楽しそうに準備している間に一人だけ困ってしまうことがないようにお知らせをチェックしたり物を買いそろえたり自分で準備できるような仕組みを用意する。その子の好きなこと得意なことを伸ばすことができるように環境を吟味する。おやつにしてもお風呂にしても嬉しい楽しいと思えるような工夫をする。一緒に何かを作ったり、歌ったり踊ったりすることに時間を費やす。それだけじゃないし、それらを遂行するために自分自身の心に隙間を作っておかなくてはいけない。

昔のように働いていたら、それは無理だ。働きながらの育児はできるが、育児に集中するとは言うことはできない。あくまで私のポテンシャルでは到底無理だった。

当時の私には、働きながらの育児はできる、の中に子育てに集中しているも入っていた。でも子育てに集中することが自分に余裕がないとできないことだとは考えてなかった。案の定、できなくて、だからイライラしたり焦ったり追われたりしていたのだと思う。

子育てに集中した方がいいの?

子育てに集中して上記のことを全てできたからと言って、素晴らしい大人になるとは限らない。子育てに集中したいのは、親だ。子どもは親が集中できなくたって、育つ力を持っている。3ヶ月前までの、毎日を必死にこなしていた生活の中にも、息子と腹を抱えて笑った時間もあるし仕事にやりがいを感じて涙したこともあった。あ〜子どもたちに会いたいなと胸が苦しくなったこともあるし、しっかり働いた分いいものを買うことができた。同時進行能力も著しく発達し、今も役に立っている。

だからどっちだっていい。重要なことは、自分がそうしたいか、したくないかに行き着くことだ。

行き着くことのできる時間を、これからは大切にしたいんだ。するんだ。


これから

働かなければいけない。現実を見つめるのは優先順位の高い重要課題。でも最優先最重要課題ではない。

なんのために働いているんだろうと言う友人に、「白目剥いて髪の毛振り乱しながら育てても、子どもにとっては最愛の母だよ。リフレッシュして、楽できるところは楽しなね!」と言った。当時の自分が当時こんな風に言われてどんな気持ちになるか今では想像もできないのが恐ろしいけど、友人はその言葉に助けられ涙してくれたらしい。

仕事にも子育てにも集中できずに、心はすり減っても、なくならない。なくなるのだとしたらそれは体の病気と同じことで、その人自身が悪いのでは決してない。そうなる前に、リフレッシュをしてほしい。自分がそうしたいに行き着けるような心の隙を持ちながら、この世の宝である大切な命を育ててほしい。どうか。


母たちを、子どもたちを、私も応援します。