食洗機を買った日の日記。
2021年、新しい年を迎え、私は決めた。
食洗機を買う。
何度も購入を考えたことがあった。
決して安いものではないし、シンク周りの広さや蛇口の種類なども考慮しなければならない。というよりも、今まで当たり前にやっていた、やらなければならなかったことをお金を払って機械に任せることに罪悪感があったのだと思う。
その罪悪感が誰のためにもならないことに今更気づいたきっかけは、
子どもが小学生になる時、保育から教育をする環境に子どもが置かれた時、家庭でのサポートは違うものになる。そしてそのサポートをするために、私は家事をやめました。
というワーキングマザーの先輩の言葉。
影響を受けやすい自分だし、我が家も今年新一年生となる息子がいるので、その通りだ!と思ったのかもしれないけど、意味のない罪悪感に対しそんなのなくていいんだと自分の中で漠然とあった不安の霧が晴れたのだった。
家事をやらないで家の中の清潔が保たれないことがいいわけはなく、誰かがやらなければならない。
パートナーに話して食器洗いを分担制にしたり、任せたりすることを話し合うことに労力を使うのが面倒と思ってしまうことは我が家の夫婦関係の問題なのでその話は置いておいて、任せる対象がパートナーではなく機械だっていい。食洗機を売る会社の人間が時間とお金をかけて考えに考えて作った製品だ。
家事が嫌いなわけではない。好きでもない。
食洗機を導入して得たものは時間じゃない。皿洗いはやり始めれば15分で終わる。
仕事から帰って力を振りしぼって作った夕飯。子ども達が綺麗に食べてくれる日もあれば、え?もう食べないの?とそれだけで一喜一憂することもしばしば。
そこに洗ってない食器がある。洗わなければいけない。
朝だって子どもたちの思い通りにはいかない言動に結局バタバタしながらも朝食で使った皿をそのままに出かけ、帰ってくるとおかえりなさいと出迎えてくれる洗ってない食器。洗わなければ夕飯を作る気にもなれない自分。
皿洗いの途中に限って、娘は構って欲しいと訴えてくる。私にとって皿洗いには勢いが必要でよし、やろう!と意気込んでバァーッと洗う。そこを中断されるストレス。
皿洗いは料理の一環であると料理家は言い、料理をする中で洗い物が出た時はその都度洗えば料理が終わる頃にシンクがごった返すこともない。でもできる時とできない時がある。仕事を終えて脳がエネルギー不足な時は皿洗いをしながら料理ができない。
食洗機を導入して得たものは時間じゃない。そもそも得たのではなく、無くしてくれたのだなと思う。
初めて使ってみたとき、感動した。
もちろん食器は綺麗になっている。それよりも。
自分ではないものが、やってくれた。
私が求めていたものはそこだったのだと思う。
母たちを、子どもたちを、私も応援します。