私が死んだ日の話
4月23日。
どうやら知らない天井の下で目を覚ましたようだ。
目が覚めた時、一番最初に思ったことは
「失敗した。」
だった。
悲しみも喜びもそこには存在しておらず、ただ失敗した、という事実だけが私に残った。
そう、これは私が自分を殺すに至るまでの話。
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事の発端はそう、4月の初頭、まだ肌寒さが残る頃。
私はいつものように会社へ行き、帰り、当時好きだった人間に会うという日常を繰り返していた。
現代とは嫌なもので、SNSで逐一他人の行動を監視出来てしまう。
例に漏れる事もなく、私もTwitterを見ていた。
なんでもない小さな違和感が積み重なって、降り積もった疑念はやがて大きな疑問に変わる。そしてその疑問は確信に変わる日が来る。
小さな違和感は2月の終わりから感じていた。けれどその違和感に目を瞑り見ないようにしていた。
そういえば、家族と京都旅行に行くって言ってたっけ。
そんな事を思いながら、写真を見ていた。
ふと、目に止まった知らない女性のアカウント。
上げている写真は彼と同じ場所で撮影されていたものだった。
何故気付いてしまうのだろう、別に知りたくも、見たくもなかった。
そういう、ことだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
いつだって自分は、何故だか浮気されて終わる事が多い。
今回も実は3回目の浮気であった。
許した訳ではないが、離れる事も出来なかったし、何より彼がいない日常を既に思い出せない程の時間が経過してしまっていた。その年月凡そ十年。
私は毎回毎回、すぐに浮気に気付いてしまう。
些細な動作や言動、行動の違いが目に付くからかもしれない。
そして何故かそれはいつも正解で確信に変わる。
なんでだろうな、何も知らなければ、何も気づかなければ、このまま、過ごせたのかなぁ。そんな事を思いながら、毎度ハンマーで頭を殴られるようなショックを受ける。
彼に好かれる為に生活の全てを賭けてきた。
住む場所も、仕事も、趣味も。暴力にさえ耐えてきた。
結局受け入れてもらえること、なかったけどね。
4月5日。
確信していたけど本人に問い合わせた。
浮気したのかと
そうだと言った。
何故嘘をついたのだと聞けば
話すことが面倒だったと言われた。
その日から私は味覚を失くしてしまった。不思議と涙はもう出なかった。
でも味がしないし、食べれば吐く。
けれど明日はやってくるし仕事もある、だから、とりあえず少量で高カロリーな介護栄養食を食べて生活した。だるさとかは全部栄養ドリンクで飛ばした。
当時私は営業の仕事をしていた。
だんだんと記憶が欠け、脳の回転が遅くなり、音が聞こえにくくなり、人と話せなくなっていくのを肌で感じながら、でも明日も仕事があるからととりあえず仕事をし続けた。土日は寝込んだ。
私は浮気された事そのものより、嘘をつかれたという事が悲しくて、滅多に荒れないTwitterで大荒れした。お陰で何人かのフォロワーが異常性に気付く事になる。個人的に話したりはその時点ではしなかった。
それでも私は、いつもの様に、彼が浮気してもそれに耐えさえすれば、彼はまた帰ってくるのだろう、そう楽観視していた。
だけれど、先に身体が限界が来たらしい。
私は元から睡眠導入剤、マイスリーと、抗不安薬のレキソタンを常用していた。
それが日に日に増えていった。
酒を飲む量も増えていった。
4月21日。
この日は作品展示がある為、会場に出向く必要があった。
この頃になるともう全く食べ物を口にする事ができず、体重は2週間と少しで8キロ減っていた。
遅刻したが無事に展示を済ます事が出来、しかし、もう酒を飲まないと外に出られない程になってしまっていた。それでもなんとか、展示は無事終了した。
そして、軽く事情を知っていた友人に最寄りの駅まで送ってもらった。
どうやって帰ったのか、あまり覚えていない。
4月22日朝。
出社しようと起床すると、上手く起き上がる事が出来ない。
それでもなんとか時間をかけて用意しようとするも、財布が見当たらない。どうやら、昨日外に出た際に落としてしまっていたらしい。
なんてことのないトラブルだが、そのせいで私の気力は底をついた。
会社に連絡し、休む旨を伝えた。
どうやって過ごしたかあまり覚えていないが、外に出る事もなく、寝込んでいたと思う。
そして午後7時ごろ。
明日、また会社に行かなければ。
でも既に意識が朦朧としていた。
ずっと心の中は針を深々と刺されて抉られているような痛みに苛まれていた。
展示に、彼が来ていたが、周りに察せられないように私は普通を装った。だから誰も気付いていない。それでいい、誰にも気付かれたくなかった。これは私たち個人間の問題だ。
けれどもう私自身は身も心もぐちゃぐちゃだった。
私の家には、今は割愛するが、過去何度か試行した自殺の為の道具がいくつかある。
もう、なんでもよかった。楽になりたかった。
七輪と練炭を風呂場に置いて、マイスリーとレキソタンをあるだけ全部持ち込んだ。
音楽を掛けながら、ありったけの薬を飲んだ。アルコールも入れた。
遺書なんて、書く事が思いつかなかったから書かなかった。ただもう苦しいから消えたかった。
遺書は書かなかったけど、フォロワーが片手で数えられる程度しかいない壁打ちアカウントで、暇だし実況することにした。
練炭に火をつけ、自分が眠りに落ちるまでの時間、思ったこと、現状を書き込んでいった。色んなことを、思ったけど、なにってもう、疲れちゃった。早く楽になりたくて、こんなに裏切りしかない世界が嫌で、嫌で嫌で嫌で嫌でたまらないから、もう生きるのが嫌だって感情しかなかった。あと、私が死ねば彼が傷付くと思ったから。ぐちゃぐちゃに傷付けたかった。
意識が遠のいて行く時、不思議と恐怖心はなく、本当に眠るような感じだった。走馬灯も見えなかったし、人生でやり残した事を悔いるなんてこともなかった。ただもうこの世界から消えられるならなんでもいいやって思った。
そうして、今まで辛いこともあったけど人生まあ楽しい方だったな。浮気されて死ぬとか、本当にくだらないな。でももう限界。もしこうまでして生き残ったら私の運はホンモノだな。って呟きながら私は意識を失った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
そう、そうして、次に目覚めたのは私はICUのベッドの上だった。
どうやら、誰も見ていないと思っていた壁打ちのフォロワーの友人が救急車を呼んでくれたらしい。
この時の事は感謝してもしきれない。
忙しいのに深夜にわざわざ家まで来てくれたようだ。
私は覚えていないが、大体3時間半後ぐらいに見つかったらしい。本来なら致死に至る時間は過ぎていたものの、意識を失った際に床に倒れ込んだ為、一酸化炭素の濃度が薄く生き残ってしまったらしい。あと30分ほど遅かったら死んでいたかもしれないそうだ。一酸化炭素は空気より軽い。もし火事に巻き込まれたら低い位置で呼吸をしたら生き残れるかもしれない、とひとつ賢くなった気がした。
私の体温は運ばれた時点では31度ぐらいまで下がっていたらしく、文字通り死にかけだった。でも幸い今は治療の甲斐もあり一切の後遺症が出ていない。
私は目覚めてから暫くとても残念な気持ちだった。
医者も看護師も警察もみんな優しかったけど、どこか心ここにあらずという感じで全てが上の空だった。尿道カテーテルがすごく痛かった。
それから4日間ぐらいICUで過ごした。ICUには家族しか入れないらしく、友人には会えなかった。
遠方から母が来た。申し訳ない気持ちもあったけど、その時は何もなかった。悲しい、苦しい、辛いとかが一切なくて、ただ、虚無。
なんでこんな何もない世界に戻ってきたんだろう、生き残ってしまったことへの虚無感しかなかった。ごめんとか、ありがとうとか、そんな事考えている余裕がなかった。当然、無断欠勤になったと思うし、仕事も終わったなって思った。
ICUでは食事が出てこない。オール点滴。それが楽でよかった。でもカテーテルは辛いしベッドの上で用を足すのは一生慣れないと思う。
そんなこんなで、この世界から離れられなかった私は、一酸化炭素中毒症と栄養失調の治療の為、高濃度酸素治療を行える施設に入院する事になったのである。
あの日の事は今でもよく覚えている。
辛い気持ちをわかってくれとも言わない。
ただまあなんか、死ぬ理由は人それぞれで、何がトリガーになるのかなどわからない。
私は結果的に生き残ってよかったと思える日常を送れているけれど、あの時点では本当に死にたいしかなかった。生きることが須く正義じゃない。だから私は死にたいという人を否定出来ないししたくない。
でも私個人はあの時死ななくて、今は生きててよかったなと思います。
初投稿です。
入院編とか過去編とか婚約事件編とか相方編とか推し編とか書きたいことはいっぱいあるのだけど、とりあえず今年一番の事件から。
今は幸せに生きている為、生きている事に感謝しています。
みんな、こんな私を生かしてくれてありがとう。
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