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全集中鑑賞 俳並連スペシャル クリティカルヒット俳句編

3回に渡りお届けして来ました、俳並連の句集鑑賞シリーズ。ラストを飾る3回目は『クリティカルヒット俳句』ですから、名実共に高い評価の句がズラッと並びます。物書きとして、臨み甲斐のある句群でしたが、一番難しかった印象もあります。頑張って七句に絞りました。しかしながら、やはりというか、なんというか、物書き魂に火が付いたので、鑑賞を通じて一つの物語のように味わえるよう、独自の色を足して仕上げてみたつもりです。

それではランキング形式にて、どうぞ。


恵勇の私的特選 七席

『夏蝶のおしゃべり仏陀お見えらしい』
中村すじこ

わざわざ言わなくても…と思うかもしれませんが、『おしゃべり』とある以上、季語の夏蝶は一匹ではないと断じる事ができます。もっと言うと、三匹以上よりも、二匹の映像が想起しやすいのかな、とも思います。さらには、その二匹は両方メスな気がしますけど、さすがにそれは偏見かもしれない(笑)。

作者が蝶語に長けたすーじーだからこそ、蝶の会話を翻訳し得たわけですね。すーじーですからね。納得です。もしくは、翻訳蒟蒻を使った可能性も否定はできないです。どちらにせよ、かなり高精度に聞き分けていますね。何しろ、宗派まで言い当てているわけですから。

夏蝶は、普段に比べてアクティブで、活発なんですよね。それなのに仏教徒なんて、面白すぎじゃないですか(笑)。例えば僧が突然ブレイクダンスを始めるような、そんな面白さ。これはもはや大喜利俳句の領域と言って良いでしょう。

なんかこう、写真de俳句みたいな趣きがあって、好きでした。二匹の蝶に吹き出しが付いているような兼題写真が、思い起こされましたね。




恵勇の私的特選 六席

『蛆の見る23.0の靴』
三尺玉子


これは、難しい事をサラッとやって退けているタイプの句ですね。何をしているのかと言うと、この短いことばの途中で、かなり大胆な視点の変更が起きているのです。それはつまり、あの有名な

『渡り鳥みるみるわれの小さくなり』

という句と、全く同じ技法なのです。

渡り鳥の句においては、恐らく作中主体は渡り鳥を見上げて、立ちすくんでいるだけです。ところが、中七の辺りで、主体の意識が季語である渡り鳥の視覚にスイッチされ、読み手が見ている映像も、あたかもチャンネルが変わるようにして、即座に鳥の脳内映像が共有されているのです。

翻って蛆の句を見てみると、天地を逆転させただけで、全く同じ現象が起こっている事が分かります。ただし、人間の靴裏を下から見上げているという点で、渡り鳥の句では感じ得ない、踏み潰されるかもしれないという緊張感や、緊迫感に満ち溢れています。

23センチは、決して大きな靴ではないですが、それを大きく見せているのが蛆という季語であり、その視界を乗っ取ったような、独特の世界観が広がる一句だと言えるでしょう。





恵勇の私的特選 五席

『マフラー巻くこころを隠す為に巻く』
山川腎茶


熱心に句集をお読み頂いた方は、ハッとしたのではないでしょうか。この句と、句集4ページにあるマフラーの句は、無関係とは思えませんよね。でも恐らく、句が生まれた経緯に、何か繋がりがあるわけではないと思います(確認したわけではないけど)。

で、これを見るとやっぱり、マフラーという季語に少しネガティブなエッセンスがあるんだなぁと感じます。あちらの句の鑑賞でも触れましたが、本来は防寒着なので、「心を隠す」事は必然ではありません。でも、だからこそ、そこに詩が生まれるのです。

ついでに流れで触れておくと、この句も動詞3つですね。しかも、2/3がマフラーを、1/3が心を描写しています。他の動詞3つの句との違いを考えながら鑑賞してみるのも、また一興です。

作者は何故、心を隠したかったんでしょうか。こちらの場面でも、心理的接続エラーは起きているのでしょうか。冬という季節に暖を取るには、身体のみならず、心も隠すべきなのでしょうか。我々にハッキリと伝わってくるのは、その内側があたたかいだろうという事くらいです。






恵勇の私的特選 四席

『五臓より多いポケット猟期来る』
阿部八富利


これは言い得て妙、というやつです。狩猟用に着るジャケットとか、本当にそんなに要るのかというくらい、謎にポケットが多いんですよね。その共通認識を下地に敷く事で、この句はリアリティを確保できているわけですが、例えば『ポケットの多いジャケット猟期来る』としても、読み手を充分に納得させるだけの景は立ち上がってくれるはず。そこにワンポイント足すエッセンスとして、五臓というワードを引っ張って来れたのが勝因と言えるでしょう。五臓というものは、自分自身の中にも存在するものでありながら、猟期という言葉と掛け合わせる事で、読み手は狩りの対象に想像を巡らせてくれるのです。作中主体は、どんな獲物と対峙するのだろうか。動物を捌くからには、身体構造にも詳しいのかもしれない。そう言えば、胃を複数持つ動物もいるんだっけ。必要以上にポケットがあったり、胃が4つあったりする事に、ある種の構造美を感じてしまう人は、自分だけではないはずです。そもそも、そんなところまで想像が及ぶ句も、珍しいのではないでしょうか。ポケットの数でリアリティを、五臓でオリジナリティを、それぞれ確保している良句です。






恵勇の私的特選 三席

『お祝いの西瓜象舎へ二十三』
三月兎


自分はもう随分と、一句一遊はお休みしていますが、『二十三』という難解なお題に対して、どんな句が天に輝くのか、実はこっそり外野から注視していました。そうしたら、これじゃないですか。

もうね、うわーって感じ(笑)。

二十三という数詞に、こんなリアリティ持たせられるんだぁ…と感動したのを覚えています。

それを可能にしたのが、この言葉の並び順と、それを繋いでいる的確な助詞の選定です。

お祝い→西瓜→象舎→二十三

試しにこう書いてみると、非常に謎めいている事が分かります。そうです、ほぼ謎かけと言って良いレベルの並びです。つまり、この句を読み上げる事は、言葉のパズルをゆっくり解き明かす事に等しい。それも、最後の二十三が出た瞬間に、何のお祝いなのかが分かるようになっているんです。

例えば、『お祝い』を除いたとしたら、趣きはガラッと変わります。全部で二十三頭いる象へ、一頭につき一つの西瓜を差し入れた可能性が出て来てしまいます。それはそれで面白いのかもしれないけど、リアリティという点ではかなり劣ります。だって、象にとっての西瓜一つは、人間で言えば蜜柑一個くらいの価値しかないじゃないですか。西瓜一つなんて、一瞬でペロリですよ。そんな芸当ができるのは、象か志村くらいのもんですよね。

ですから、二十三歳のお誕生日を迎えた象へ、ケーキのローソク宜しく、歳の数だけ西瓜を差し入れたに違いないんです。それはそれは豪快なプレゼントではありますが、象という動物がその豪快さを、違和感なく、自然に受け入れてくれるわけですよね。

こういう句が出てしまうと、来年の『二十四』が作り辛くてしょうがないですね。ハードルがかなり高い位置まで、上がり切ってしまいましたから。

もしかしたら、ことばの跳躍力に長けた兎さんが、二連覇したりしちゃったりして…(笑)!






恵勇の私的特選 二席

『大注連縄の房にかうもり干乾びぬ』
北欧小町

まず皆さんにお伺いしたいのですが、蝙蝠って見たことありますか?それらしきものを見た…ではなく、きちんとそれが蝙蝠だと認識できた事はありますか?

蝙蝠は、四六時中飛んでいる生き物なのです。ただし、飛んでいる様子は、小型の鳥や、大型の蛾に似ていなくもないです。また、ご存知の通り夜行性なので、それを目撃する時間は、決まって夕方から夜にかけての暗い時間帯で、知識のない方は見誤ってしまう可能性が高いです。もっと言うと、気づかずに見逃している可能性もかなり高いです。しかし実は、彼らは我々にとってかなり身近な存在なんです。自分は俳並連の鳥支部で部長を務めている関係で、飛行物体の識別にはかなり自信があります。蝙蝠に関しては、大げさではなく、年間で100回は目撃しているでしょうね。そんな自分でさえ、止まっている蝙蝠はほぼ目撃していません。それくらい、彼らは常に飛び回っています。だからこそ、そんな蝙蝠が干乾びている場面に出くわす事自体、かなり珍しい光景だと言えるのです。まず、作者はその場面に遭遇した事を、驚きを持って写生しています。

問題は、どこにその蝙蝠がいたか。
それは『大注連縄の房』だと、作者は言います。

これは実にオリジナリティの高いアイテムですよね。そんなところに蝙蝠が事切れていた、それだけでかなりインパクトのある映像にはなるのですが、大注連縄というものの意味合いを調べていくと、さらに味わいが倍増していきます。

全知全能の神として名高いインターネットのヤホーによれば、注連縄とは『神域と現世を隔てる結界』と記載があります。さしづめ大注連縄ともなれば、その結界の中でも殊更強力なバージョンであると、推察できます。その結界に、蝙蝠が干乾びていたのを、作者は目撃したのです。皆さんはそこに、どんな意味合いを見出すでしょうか。

このような写生句は、余計な事は一切書いていない代わりに、読み手へ残された想像の余白は、かなり大きいのです。

果たして蝙蝠は、この結界に行く手を阻まれたのでしょうか。または、肉体を差し出す代わりに、魂だけが結界の向こう側に到達できたのでしょうか。それとも、肉体も魂も一つのまま干乾び、今もなお結界に護られているのでしょうか。


あ、今気づいたんですけど、今回の特選七句、この句とあの句は、夫婦同時入選じゃないですか?

どちらも動物関係なので、両者の句を半々で引用して、何か気の利いたコメントでもしようかと思いましたが、それぞれの句の世界観が力強く立ち上がっていて、混ぜ合わせる事が出来ませんでした。共に、それだけの句だったと言う事ですね。

お二人とも、おめでとうございました!






恵勇の私的特選 一席

『側溝に朽ちて桜を名乗るもの』
村瀬ふみや


まず、側溝というものの映像について、確認しておきましょう。これは、道路脇などに設えた小さな水路の事で、雨水や泥などを排水する目的があります。誰もが見たことがあるので、共感の土台については問題ないでしょう。ゴミなどもここに溜まるので、流れて来たものの一部は、この場で朽ち果てていく運命にある事も、想像が及ぶ事かと思います。

それを踏まえて、後半の措辞へ目を移すと、『朽ちて桜を名乗るもの』とあります。

水の流れに乗り切る事ができず、側溝に留まり、桜の形を保ったままで、それは朽ちていくのです。

これは本当に、惚れ惚れする措辞です。日本文学の美しさを、ぎゅっと凝縮したような表現だと思いました。日本人の持つ、最も日本人らしい心が、この一文からは感じられました。

朽ちてなお、それは桜の花であろうとし続ける。

一旦はそう言い切っておきながら、すぐにそれが『もの』に過ぎないのだと、断じています。ここにこそ、日本人特有の儚さが巧みに封じ込められていると、自分は思います。

『絆』の回で、雪の一生を謳った句があったように、これは桜の一生を思わせます。雪の句が、最初の1ページを切り取ったのに対して、この句は桜の一生の、最後の1ページなのかもしれません。

今回、句集の中から好きな句を個人的にピックアップして紹介する中で、生まれた時は無関係だった俳句同士が、共に鑑賞される事で強く結び付き、心を強く揺さぶられる場面に、多々遭遇しました。

ここに例を挙げたもの以外にも、そういう化学反応を感じた組み合わせが、あったかもしれません。

皆さんは、気づいたでしょうか。この句集の中に、この桜の句と強く響きあっている句があった事に。

もちろん、前述の通り、雪月花という結び付きにおいては、ヒマラヤさんの句がそれに該当します。

しかし、実はもう一句ありました。我々が、朽ちた桜に美を見出す事ができる理由を、ある種哲学的な切り口で、その句は示してくれていたのです。

もっと言えば、その句は、注連縄に護られながら干乾びていった蝙蝠にも、光を当ててくれていたように思います。一切の水分を失い、抜け殻のようになった蝙蝠に、我々が得も言われぬ美しさを感じるのは何故なのか。その答えでさえも、そこには示されていました。

側溝で朽ち果てた桜の花は、色も香りも手触りも、何もかも失い、みすぼらしい『もの』に成り下がってまで、自分はまだ『桜』であると主張している。

そこに感じる美しさを、生への執着を、確か一人の俳人が、こう紡いでいたはずです。



「死臭すらくれない」と。




全集中鑑賞 俳並連スペシャル クリティカルヒット俳句編
【了】

企画、執筆 … 恵勇

俳句出典 … 俳句ポスト並盛連盟 『ふぁみりあ』


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