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反応の客観
こんにちは。こじょうゆうやです。
2022年が始まってまだ一ヶ月も経っていませんが、もうすでに去年以上にたくさんの方のお顔を拝見し、そのお声を体内に響かせています。
ひとえに、三十三次元堂にたくさんの方がお越しくださっているおかげです。お会いできることに心から感謝しています。ほんとうにありがとうございます。
今回は、みなさまとお会いする中で、言語化した方が良さそうだなあと思うことを書かせていただきます。
タイトルの通り「反応の客観」です。
他者とのコミュニケーションにおける反応(思考や感情などの表出)は、当たり前のことですが、自分自身の反応と、他者の反応があります。
しかし、親身な方、真面目な方、優しい方、素直な方など、社会で言われる「いい人」たちのほとんどは、自分自身の反応ではなく、他者の反応を真に受けているケースが多いように思います。それ自体を「共感」と認識されている方もきっと多いはずです。
今回はそのあたりについて深めてみたいと思います。
では早速、ひとつ例を出してみましょう。
例え話
ある人が、目の前にいる他者と二人で会話をしていたとします。
その時、目の前にいる他者が明らかに不快な表情を浮かべてこう言いました。
「ねえ、あなた。それは酷いんじゃない?」
ある人にとって、それは思いもよらぬ一言でした。良かれと思って出した言葉であろうと、何の気なく出した言葉であろうと、目の前にいる他者を不快な気持ちにさせてしまったのです。
ある人はすぐに謝りました。
「ごめんなさい。そんなつもりはないの」
しかし、目の前にいる他者はある人の謝罪を受け入れようとしません。
「あなた、そういうこと前もあったんだよ。その時は黙っていたけれど」
ある人はそう言われても見当がつきませんでした。むしろ、その時も不快にさせてしまっていただなんて。ある人はもう一度謝りました。
「それだけじゃないよ。あの時だって」
そこから、目の前にいる他者はある人にたくさんの不満をぶつけるようになりました。目の前にいる他者の不満や怒りのきっかけのすべてに、ある人は関与していたのです。ある人はまるでサンドバッグになったような気分になりました。
この時、ある人は「罪悪感」「自己嫌悪」などを抱えてしまうだけでなく、そのうちに、
「そんな風に言わなくたっていいでしょう?」
と目の前にいる他者に向かって思わず言い返してしまいました。目の前にいる他者はすぐに、
「私はずっと我慢していたんだから。あなたは自分のせいでこうなってるんだからね!」
とさらに逆上しました、とさ。
さあ、がっつり重たくなる前に、この例え話をやめましょう。
(あくまでも例え話ですからね。でも、もし身に覚えのある方がいらっしゃいましたら、きっと幸運です笑)
さて、もしこの記事を読んでくださっているみなさまが「ある人」だったら、いったいどうなさいますか?
ここで一度、ある人の立場になって、目の前にいる他者をよーくよーく感じてみてください。試していただいた方は、これからの記事が思考による情報処理ではなく、体感を伴った体験となるはずです
自分自身の反応を観る
いかがでしたか?
自分が「ある人」になって、あの状態になった「目の前にいる他者」と向き合ったら、どのような反応をしたでしょうか?
「反応の客観」とは、単に自分自身の反応を観ることです。さまざまな反応がありそうですね。
思考の反応を例に出すと、
「え、怒らせちゃった。どうしよう」
「ん? なんで怒ってるんだ?」
「そんなことくらいで怒らなくたっていいじゃん!」
「あーあ、面倒臭いことになったなあ」
「・・・・・・。(驚きすぎて頭が真っ白になる)」
とか、そんな感じでしょうか。
身体の反応なら、
「熱くなる」
「血の気が引く」
「寒気がする」
「硬直する」
「涙が出る」
「呼吸が荒くなる(もしくは浅くなる)」
「心拍数が上がる」
などいろいろとありそうですね。
その状況下における上記のような自分自身の反応(反射的な表出)は、良かれ悪かれいずれにせよ、かなり純度が高いです。
それらは、自分一人ではなかなか見つけることができないエネルギーのひとつで、他者の存在があってこそ見出せるご自身の美しい輝きでもあります(それがどんなにいびつな感情だとしても)。
その輝きをどう生かすかによって、それぞれの個性のきらめき具合が決まると言っても過言ではありません。
ですが!
不思議なことに、たいていの場合はその輝き(自分自身の反応)を「自分のものではない」と決めつけ、逆に他者の反応を「自分のものだ」と決めつけてしまう妙な傾向があると思います。
言い換えれば「相手の土俵でがっぷり四つを組む横綱相撲」です。
先ほどの例で言えば、
「ねえ、あなた。それは酷いんじゃない?」
「あなた、そういうこと前もあったんだよ。その時は黙っていたけれど」
「それだけじゃないよ。あの時だって」
「私はずっと我慢していたんだから。あなたは自分のせいでこうなってるんだからね!」
などが、他者の反応です。
それらを「自分のものだと決めつけてませんか?」なんて言われても、「そんな風に思わない」とか「そんなことはない」と「反応」されるかもしれません。お気持ちは察します。
しかし、他者の反応を真に受けて、
「そんな風に言わなくたっていいでしょう?」
と向き合う(反応する)ことは、他者との見事なエネルギー交流状態(相手の土俵でがっぷり四つを組む横綱相撲)になり、それこそが「自分のもの」にしようとしている態度なのです。
果たしてそれは他者に対する正しい対応なのでしょうか? 善なる行為なのでしょうか?
そのあたりもまた、よーくよーく感じ取ってみてください。
(あらゆるジャッジメントにアンテナを立てて、自分自身のみを確かめるイメージです)
相手の土俵に上がる
さあ、あらためて振り返ります。
エネルギーの観点で見ると、
他者の反応を真に受けて向き合うこと = 相手の土俵にあがること
です。
もう少し言えば、相手の生活環境に断りもなく土足で踏み込んで、その人の生活全般を、みなさんの意図(善悪正否などのものさし)に沿ってテコ入れしようとする行為です。
そうしたら、いったい何が起こるでしょうか?
簡単です。相撲が始まります。
もしあなたが、相手の土俵に入り込んで、「(あなたの意図にそって)何かをしようとする」と、その途端に相撲が始まります。
はっけよい、のこった!!!
相手は何とかあなたを土俵の外に出そうと(あなたをあなたの土俵に戻そうと)懸命に突っ張ったり押し出そうとしたりするでしょう。すると、相手とがっぷり四つを組んだあなたは自然の成り行きで相手に対抗をし始めるケースが多いです(エネルギー交流の完成!)。
その際に相手の土俵にあがった方々のほとんどは次のように叫んでいます。実際に声に出しているケースもありますし、声に出さずともそういう気持ち(思考)でいることが多いかもしれません。
「君のために!」
「家族のために!」
「会社のために!」
「国のために!」
「地球のために!」
「◯◯のために!」
たとえ相手の土俵から追い出されても、もう一度戻って、必死になって食い下がります。叫ぶ内容は一緒です。
今の社会では、それを何度も何度もあちこちで繰り返している印象を受けています。
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あたたかいサポートのおかげで、のびのびと執筆できております。 よりよい作品を通して、御礼をさせていただきますね。 心からの感謝と愛をぎゅうぎゅう詰めにこめて。