クリスチャンにとっての割礼とは? 創世記17章9〜14節 契約を守ってくださる神④「キリストの心に造り変えられる約束」 2022.8.28 守谷キリスト教会礼拝説教
旧約聖書には、
やがて新約の時代になってからはっきりと与えられる恵みについて、
模型のように
表している事物や人が登場します。
割礼も、新約の時代に与えられる恵みを表す模型の一つです。
割礼は、
契約が結ばれたことの証明書です。
神は、アブラハムと結ばれた契約に属する者は、
印として
割礼を受けなければならないと命じられました(創世記17:11)。
割礼とは、男性器の皮の一部を切り取ることです。
アブラハムたちが割礼を受けることで、
この契約がようやく成立したということではありません。
割礼は、神と、アブラハムとそれに連なる子孫たちの
親密さを証明する印でした。
イスラエルの民は、
割礼によって印が付けられたことを誇りとし、
自らを「割礼の者」、
異邦人を「無割礼の者」と呼びました(Ⅰサム14:6, 17:36、エペ2:11-12)。
この誇りは
良い方向にも
悪い方向にも
作用します。
割礼を受けた者「らしさ」として、
彼らは律法を守り行い、
大きな苦難の中にあっても
契約の民としてのアイデンティティを保ち続けます。
一方で、
この誇りは
高慢さと心の頑なさも
生み出しました。
このことはやがて、
教会の時代になって
「無割礼の者」がクリスチャンとなった時に、
課題になりました。
肉体に施された割礼は、
十字架の救いと、
聖霊によって心が造り変えられることの
模型です(申命記10:16、ローマ2:28-29)。
私たちは神の前に、頑なな心を持ちます。
信仰を持つ前は自分の生き方や、
それまで培ってきた独自の視点を誇りとしました。
信仰を持った後には、
自分の信仰のスタイルや奉仕のあり方に、
必要以上にこだわることがあります。
感謝を表す手段でさえ、
自分を誇るものに
いつの間にか変容させてしまうことが
私たちの弱さであり、罪なのです。
肉体の割礼は多くの場合、
父親によって施されました。
自分で自分に割礼を施すことができないように、
自分で自分の心を柔らかくすることはできません。
神は私たちの心に割礼を施してくださいます。
イエス様の十字架の前に立つ時、
聖霊に触れられる時、
私たちの心の固い部分は切り取られ、
柔らかい心が表されます。
それは、
本来神が私たちに与えてくださった、
神が喜ばれることを喜び、
悲しまれることを悲しむことのできる、
キリストの心です。
なんとしても変わることのできない自分自身を
諦めてはいませんか。
神は今日もあなたを造り変えようと、
待っていてくださる方です。
【本日の説教を振り返るために】
① 心に割礼を受けた者として、捨て去るべき罪や習慣はありますか?
② 心に割礼を受けた者として、促されている良い行いや志、チャレンジはありますか?
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