姉弟喧嘩(ショートショート)
夏になると思い出す話
夏になると思い出す話がある。
よくある事として、傍から見ているとあまりにもささやかな事であっても、誰かにとっては決して小さな問題ではないといったような事がある。
この文を読んでいるあなたにも一つくらいはあるだろう。
自分にとっては些細な事でも、他人からすれば重大な事であったり…。
それは例えるなら、例えるなら…例える…なら…。
…はて、どうした事か。
この心境にピッタリ嵌る例えが思い浮かばない…。
あれは12歳の夏の…
本題に話を戻そう。
私には、夏になると思い出す話がある。
そう、あれは12歳の夏のこと。
夏休みが始まる直前、1学期も最終盤に差し掛かった時だった。
私は学校から帰ると、冷蔵庫に入っているプリンを食べた。
冷蔵庫の片隅にたまたま入っていたような、それほど高くもなければ美味しくもない、何処にでも売っている5つ入りで200円ほどのプリンを食べた。
―「甘いモン食いてぇな」「冷蔵庫でも見てみよう」「おっ、プリンあるじゃん、ラッキー」「はぁ、食った食った」―
そんな風に私が食べたプリン。
だがしかし、実はそのプリンは、2つ歳上の私の姉が少ない小遣いによってカターく結ばれた財布のヒモを力づくで緩め、やっとこさ引きずり出したような小銭を用いて購入したプリンだったのだ。
―今日1日を乗り切った暁には、5個入りのプリンを一気喰いしてやる―
それだけをモチベーションにして、授業中は机にしがみつき、放課後は所属する吹奏楽部の顧問に理不尽にシゴかれ、歯を食いしばり頑張っていた姉。
そんな姉は重い足を引きずりながら、やっとこさ帰宅した。疲れのあまりクタクタになった姉は、ヨタヨタと歩きながら真っ先に冷蔵庫へ向かった。そして、冷蔵庫を開けた。冷蔵庫の片隅から姿を現したのは、5…いや、4個入りのプリンだった。おかしい、何かがおかしい…。
姉は激怒した。
200円5個入りだったはずのプリンが4個入りに姿を変えた。5個入りのプリンを一気喰いするという姉の密かな野望は、彼女が今日1日を生きていく上での大きな支えであった。
―こんな事をするのは…きっと、ヤツしか居ない―
姉は…もとい、復讐に燃える鬼と化した獣は、大太鼓を叩くが如き勢いで以て我が家の階段を踏み鳴らし、2階の階段を上がってすぐ左手にある、私が統治する独立国家へ飛び込んだ。
「弟の分際で姉のプリンを口にするとは何事だ、この不届き者め!」
部屋に上がるや否や、マックスボルテージで私を責め立てる姉。あまりに勢いよく扉を開いてしまった為、未だに部屋中には扉を開けた際に生じた衝撃音の残響がこだましている。
こうなってしまっては、成す術がない。
『ノックもせずに部屋に上がりこむとは何事だ』『そんなにプリンが惜しけりゃあ名前でも書いておけば良いじゃあないか』『そもそも一個しか食べていない』『弁償すればいいのだろう』『バカ』『ブス』『デブ』等と、一応の応戦を試みたものの、姉からの『うるさい』『黙れ』『犬に喰われてくたばれ』という、随分と乱暴な物言いで以て、私の意見は封殺されてしまった。
その後の惨状は言うまでもない。細かい描写は控えておくが、気が付けば私は鼻から血を流して泣いていた。
私にとっては大したことのないプリンであっても、姉にとっては何物にも耐え難いプリンであったのだ。それは、代わりのプリンを買えば済むような問題ではなく、彼女のテリトリー…いわゆる、超排他的個人領域に踏み込んでしまった事が問題であったのだ。幼い私には、事の重大さが理解出来ず、ただひたすらに泣く事しか出来なかったが、今になって考えてみると、そんな風に思う。
プリン事件以降…
その事件から私は『人間にはそれぞれ、踏み込んではいけない領域というものがあって、それを侵すと大変な事になる』という事を学んだ。
思春期を迎えるにあたって、無垢でなおかつ無教養故に、他人の性や恋愛事情を茶化したりするような輩が増えていく中、私は自慢出来る程度には他者に思いやりを持つ事が出来るようになったと思う。
何なら、大人になった今でもそんな輩は少なくはない。プライバシーもデリカシーもへったくれもないこの世の中で、他人を傷つけずに生きるのは大変難しい。他人様のプリンを無断で喰ってしまうような輩は多少なりとも存在するのだ。
どんな時代であれ、どのような状況であれ、私は他人への思い遣りを忘れず、キチンと引くべき線を引いた上で人付き合いをしていきたいと私は思っている。
それに気付かせてくれたのは、あのプリン事件であり、あの時の姉の錯乱ぶりなのである。
少々授業料は高くついたが、あの時の学びは今も私の血となり肉となっている。
暑い夏にプリンを喰う度に思い出す、夏の日の思い出でした。
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