ある日記「お笑いにおける『ほんとうのこと』」2024年11月29日
お笑いは「ほんとうのこと」を言い合う競技という一面がある。ありきたりな現実という「本当のこと」ではなく、そこに横たわっているのにまだ発見されていない「ほんとうのこと」に言及しなければならない。
「ほんとうのこと」の一部分は「あるある」と言い換えることもできる。それは聞くと思わず「あるある」と嬉しくなるような現実だ。聞いたときの感想が「あるよね」では「本当のこと」止まりだ。多くの人が見落としていること、通り過ぎてしまっていること、記憶にとどめる価値を感じないことが、再発見され、価値が付与されると「あるある」になる。
評価することはお笑いに必要不可欠だ。評価が上昇するにせよ、下降するにせよ、その振れ幅が情動となり笑いに繋がる。変わらない評価には欺瞞の気配が含まれており、評価が変動することは舞台上や映像内で起きた現象を「ほんとうのこと」に変貌させる。お笑い業界が、ネット上のお笑い動画に付く視聴者のコメントをあくまで個人の意見と矮小化しながらも無視できないのは、コメントによって評価が変動することが「ほんとうのこと」を支えているからだ。
お笑いにおいて「嘘か、本当か」という問いかけは重要だ。面白さは作り物の気配によってすぐに腐ってしまう。ただ、お笑いにとって虚実の証明はデータによって行われるのではない。生活に埋もれていた現実が掘り出される行為こそが証左になる。
例えば漫才は、マイクの前で二人の人間が大勢の前で話すという、冷静に眺めればおかしな状況を生み出しているが、二人のやりとりのなかで現実が掘り出されていくことでリアリティを獲得する。今やお笑い界を覆い尽くす「ボケとツッコミ」は、舞台上で開陳される奇想天外な発想、雲を掴むような概念すら「ほんとうのこと」に変えるよく出来たシステムだ。
フリートークに目を向けると、掘り出す行為の重要性はより高まる。実際に起きたことや実感を話すというルールで成り立つ場では、発言が等しく真実であり嘘である。舞台上では会話が抱えていた粉飾可能性が炙り出される。欺瞞の気配を振り払うには、一人では話を深く進めることで、多数では質問などにより話に新たな角度で照明を当てることで「ほんとうのこと」にたどり着くしかないのだ。
互いの主張をぶつけ合う番組や企画においては掘り出す行為がエスカレートする。主張とは発言者の腹を見せることで、そもそも「ほんとうのこと」であるはずだ。しかし、どれだけ優れた意見でも、多くの人々に認められれば認められるほど「ほんとうのこと」から離れていく。掘り出さなくて済むようになると掘り出せなくなるからだ。そして、掘り出す先がなくなったとき、天地が反転する。かつて過ぎ去った場所をまた掘り出す。こうして生まれるのが「逆張り」だ。「ほんとうのこと」を語り続けるには「逆張り」をするしかないのだ。
ちなみにこの「ほんとうのこと」という概念は、鈴木ジェロニモが短歌を論じるときに使っているものだ。良い概念なのにお笑い論に転用していないのはジェロニモの粋なのかもしれない。僕が勝手に使ったことで、「ほんとうのこと」が「ほんとうのこと」でなくなってしまったら申し訳ない。先に謝っておく。
お笑いについて論じるのはほとんど価値がない。恒常的な議論を破壊することで、お笑いは面白味を確保しているからだ。それでも語りたくなってしまうのは、お笑いが「ほんとうのこと」を掘り出す熱気に当てられて、自分も「ほんとうのこと」を探し当てたいと願ってしまうからだろう。
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