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ゲ謎の「M」はモルヒネか

※本コラムには映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』の重要なネタバレを含みます。

 水木しげるの漫画『ゲゲゲの鬼太郎』の前日譚を描いた映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』。2023年11月の公開後、口コミで人気が広がり大ヒットを記録した。2024年10月には、327カットをリテイクした『真正版』も公開されている。
 物語の主な舞台は1956年、日本の政財界を牛耳っていた龍賀一族の支配する哭倉村。血液銀行に勤める水木は自らの野心と密命のため、鬼太郎の父・ゲゲ郎は失踪した妻を探すため、村へと足を踏み入れる。龍賀一族が当主の死去により醜い跡目争いをするなか、神社で一族の一人が惨殺される。水木とゲゲ郎は事件について調べるうちに、村に隠された恐ろしい秘密にたどり着くのであった。
 物語の鍵となるのは、龍賀一族の経営する会社「龍賀製薬」が特別な客にだけ卸す秘薬「M」だ。「血液製剤M」とも呼ばれている。「M」を投与された人間は何日も飲まず食わず眠らず、疲れもなく昼夜働く事が出来る。かつての戦争で国力の劣る日本が勝利できたのは、「M」の力を得た「不死身の部隊」のお陰であり、戦後、日本が奇跡の復興を遂げつつあるのも「M」を打った人々の働きによるものらしい。
 「M」の名前の由来について作品ファンの間ではいくつかの説が持ち上がっている。強力な鎮痛・鎮静作用がある「モルヒネ」や、不眠不休で動けるようになるヒロポンの主成分「メタンフェタミン」のいずれかの頭文字を取ったのではないか。もしくは数々の詐欺事件を産み続けている伝説上の秘匿資金「M資金」から取られているのではないか、というものだ。
 ここでは「M」の由来が「モルヒネ」であるという説を考察してみたい。

 モルヒネは現役の医薬品のうち最も古くから使われている薬だ。原料のケシの実が栽培された痕跡がスイスの新石器時代の遺跡から見つかっており、その歴史は5000年以上にもなる。中世の時代まで病を引き起こす悪魔を追い払うために虫や糞尿などの汚物を薬として使っていたことを考えると、モルヒネの存在は奇跡的だ。
 モルヒネはケシの未熟な果実から得られる。花が散った数日後に生る実を傷つけ、滴り落ちてくる白い乳液が原料だ。この乳液を乾燥させたものがアヘンとなる。そしてアヘンから不純物を除去し、取り出された有効成分がモルヒネである。1803年にモルヒネの純粋分離が果たされたことで、アヘンの作用が生命の神秘的な力ではなく化学反応だと示された。近代的な薬学と有機化学の歴史はモルヒネの発見によって始まったのだ。
 純粋な有効成分が取り出せたことで、正確に量を測って投与できるようになった。これは医薬としての可能性を広げたが、同時に中毒患者を増加させることにもなった。南北戦争においては、南軍側だけで1000万錠のアヘン錠剤と、200万オンス以上のアヘン剤製品が売られたとされる。耽溺者が続出し、中毒者は「兵隊病」と呼ばれた。イギリスが清にアヘンを売り込み、アヘンの薬害にしびれを切らした清がイギリス商人の締め出したところ、両国がアヘン戦争に突入する事態も起きた。モルヒネは国を揺るがす存在になったのだ。
 モルヒネが多幸感と耽溺性をもたらすのは脳の「受容体」が関係している。受容体とは、ある特定の分子が結合し、情報を受け取る部位のことだ。脳は、外傷やストレスを受けるとエンドルフィンという物質を放出し、受容体と結合させ、苦痛を和らげる。モルヒネは、エンドルフィンの先頭部分によく似た構造をしており、同じように作用できるのだ。
 モルヒネの依存性を無くすべく研究が進むなか、1874年に生み出されたのがヘロインだ。ヘロインはモルヒネにアセチル基という原子団を結合させて生み出される。アセチル基が付与されたことで油になじみやすくなり、生体の膜は油に近い成分であるため、体内への吸収がよくなった。そのためヘロインは「ドラッグの王者」と呼ばれるほど強烈な快感が得られる。しかし同時に、禁断症状もモルヒネに輪をかけて強力になり、体中が激痛に襲われるという。

 「M」の製造過程は複雑だ。まず、原料となるのは幽霊族の血である。龍賀一族は血をできるだけ得るために妖樹・血桜を利用した。血桜は霊力により囚えた者をできるだけ生かし血を吸い続ける。龍賀一族は外から幽霊族を連れてきて血桜に与えることで、より多くの血を手に入れている。採取場所は血桜の根元に設置された祠で、その中にある龍の頭を模した像から血を垂らしている。おそらくゴムの木から樹液を採取するように、木に傷をつけて血を採っているのだろう。幽霊族から直接血を抜き取らず、植物を傷つけて原料を得るのは、ケシの実から白い乳液を集めるイメージが適用されているのではないだろうか。
 龍賀一族は採取した血を、哭倉村で村人と共謀して誘拐してきた人々に注入する。幽霊族の血を入れられた人は生きたまま屍になってしまう。生きた屍はモルヒネ中毒者の暗喩だろう。屍たちは地下の工場でベッドに鎖で繋げられ、苦しみながら血を抜き取られる。その光景は野戦病院を思わせる。戦争が薬物中毒者を激増させた歴史が一つのシーンに詰まっている。
 幽霊族の血を精製前に人に注入する過程は、薬をより強力にする意味合いもあるのではないだろうか。モルヒネにアセチル基を結合すると、より体内に吸収されやすいヘロインになるように、人の体内で幽霊族の血がある原子団と結合し、人体に馴染みやすい形に変化するのではないか。また、人を屍にしてしまうほどの毒性もこの過程で弱化されている可能性がある。
 生きた屍から採られた血は龍賀製薬の各地の工場に運ばれ、精製されることで「血液製剤M」となる。工場ではおそらく有効成分の純粋分離が行われている。屍を生かし続けるだけの力が薬という形になる。毒性を消した強力な薬の製造は人類の夢だ。龍賀一族が行う非人道的な製造は我々の夢の果てでもあるのだ。

 「M」は製造過程を見る限り、多くの要素をモルヒネとその歴史から引用していると言える。水木とゲゲ郎が戦った龍賀一族の歪んだ夢は、現代を支え続ける薬が抱える危険性でもあったのだ。


 本コラムのモルヒネに関する記述はその多くを『世界史を変えた薬』(佐藤健太郎、講談社現代新書、2015年10月)から引用させていただきました。薬学が発展する転換点となった重要な薬について書かれた読んで楽しい新書です。ぜひご一読ください。もしコラムに間違った情報があれば私の不勉強によるものです。情報の出典と共にご指摘いただけると幸いです。みなさんが新書といっしょに面白く暮らせますように。

薬剤師の方も意外と学ばないらしい。

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