ある日記「街に座れるところがない」2024年10月7日
僕は外回りの仕事をしている。お昼はコンビニで買って食べることが多い。どこかに座ってゆっくり食べようとするのだが、街に座れるところがない。近くの公園まで赴いてみてもベンチがないのだ。遊具がある公園だと稀にブランコが置いてある。ブランコに揺れながらおにぎりをパクつくのは流石に無しだろう。制服も着ちゃってるし。他の遊具は鉄棒くらい。家なき人は公園の木陰に座り込んでいる。仕方がないからじっと立ったまま食べる。
駅前に崎陽軒の小さい店舗があり、月に一回ほど仕事終わりにシウマイ弁当を買って食べていた。駅の中二階に机と椅子が並べられたスペースがあるので、いつもそこで食べることにしていた。ところがどっこい、机に注意書きが貼られるようになった。隣接するカフェでドリンクを頼んだ人のみ座れるとのことだ。シウマイ弁当を食べる場所がなくなった。
街がお金を払わない人を座らせてくれない。買い物をして、さっさと家に帰って欲しそうだ。どんどん綺麗になっていくと、ぐったりベンチに座る人を見かけなくなる。景観という意味では美しくなっているのだろう。
お金を払ったらゆっくり座れるかというとそうでもない。ゆっくりする場所の代表といえるカフェですら、冷房が強めにかけられてそう長くは居られない。おしゃれで落ち着く雰囲気を醸すカフェほど椅子が座りにくく、一人のスペースが狭く、店員が忙しない。長居しやすいカフェは気づくと90分制になっている。
街にとって人は埃か消化できないキノコの類なのだろう。とんぼ返りしてもらうか、早いとこ出て行ってもらうのが、きっと街の健康に良いのだ。お金を払うチャリンチャリンという音は街の咳なのだ。街に座れる場所が減っていくのはアレルゲンのレセプターブロックなのだ。街は人のために生きていない。
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