寺尾紗穂「天使日記」より②
寺尾紗穂『天使日記』収録「天使日記」より一部転載
4月6日
「見つけてくれるの待ってたって言われた。自分のことを信じてくれる人に会いたかったって」
昨日と同じ公園に三女のさきも次女のゆいも、友達のつきちゃんも連れて行ったところ、やはり会うことができたという。きぬが説明すると、つきちゃんにも白っぽい影が見えたようだ。この日の天使はシロツメクサの髪飾りをしていた。毎日花を取り替えているなんておしゃれだ。きぬはこの日、天使の手を握ることができた。
「手は柔らかいの、でも温度はない」
感触があるというのが不思議だが、逆に言えば人間の知覚なんて非常にあいまいなものなのかもしれない。きぬは握った天使の手をゆいの手に握らせようとした。すると、今まで天使を見ることのできなかったゆいにも白い腕だけがはっきり見え、きぬのうしろにたたずむ白い影も見えたという。ゆいは三姉妹のなかでもいちばん現実的な子で、前日のきぬの話もあまり信じていなかった。しかし、「(見えたのは)腕だけね」と帰ってきたゆいは言った。信じていなかった子だけにリアルだ。子供はやはり、異界へのピントを合わせることがうまいのかもしれない。さきもだいぶ見えたようで絵を描いてくれた。きぬ曰く、帰るときは直立ですーっと上っていって空に消えるのだそうだ。
きぬはそういえば、数年前に学習漫画『キリスト』を読んでいた。そこに天使も出てきたのだろうか。そこから得たイメージを元に、きぬの精神の無意識が天使を作り出したのだろうか。しかし、それを妹たちや友人までもが見ているというのはどういうことなのだろう。気のせい、と片づけられるものだろうか。極限状態の集団が幻などを共有して見ることができるというのは、昔の修験者たちが集団で大蛇を見るといった体験として聞いたことがある。しかし、子供たちが平和な日常の延長線で、そうした幻の共有をいともたやすくできるのだとしたら、子供とはなんとおそろしく、また素晴らしいものだろう。
人が想像のなかで考え出したものたちは、私たちが住む世界とは別の次元で生き始めるということを聞いたことがある。非科学的と一笑に付される考えかもしれないが、かつては河童の目撃者が多かったことなど、ふと「そちらの世界」に人間が迷い込んでいただけなのではないか、とも思えて妙に納得してしまう。
きぬが読んでいた『キリスト』は、当時学校から借りてきていたものだったので、中古の本を買ってみると、冒頭の処女懐胎の場面で美しい天使の姿が描かれていた。巻末の解説を読むとそれがガブリエルであることが明かされている。伝記漫画『ジャンヌ・ダルク』のミカエルはある程度インパクトがあったかもしれない。さらに、『ナイチンゲール』『ヘレン・ケラー』にもそれぞれ天使のお告げが出てくるという。こう考えると、西洋においては天使に導かれた偉人が多かったことをあらためて感じる。