見出し画像

見える人にしか見えないお店 渋谷「細雪」 (パリッコ『酒場っ子』より)

画像1

 見える人にしか見えないお店
 渋谷「細雪」 

パリッコ『酒場っ子』(スタンド・ブックス)、26p~31p



 街には「見える人にしか見えないお店」というものが存在します。

 なんだか胡散臭い話ですが、これはたいがいの飲み友達に「あるある!」と共感してもらえる現象であり、確かにあるんです。

 具体的にどんなお店か。

 例えば、あなたが転職をして、新しい街で働き始めたとします。毎日毎日同じルートを通って出勤し、帰る頃にはネオンの灯りだした繁華街を抜けて駅へと向かう。お酒好きなら、ちょっと気になる居酒屋やバルに寄って帰ることもあるでしょう。

 1年くらいそんな生活を続けていたある日、ふと「え? こんなところにこんなお店あったっけ?」と気づく。

 年季の入ったのれんと赤ちょうちんの雰囲気から、どう見ても最近オープンしたようには見えません。日々何気なく通りすぎていた道に、ある日突然出現したかのような渋~い大衆酒場。まるで狐か狸にでも化かされたような気分。

 そう、あなたが、「見える人にしか見えないお店」を見つけた瞬間です。

 人間なんていい加減なもので、駅や会社などの目的地と、そこへたどり着くためにどの角を曲がるかといった目印、それ以外のものを注意深く観察しながら歩いている人なんて、そんなに多くないみたいですね。それが証拠に、つい最近携帯ショップになってしまったあの場所、前にどんなお店があったか思い出せないことなんて、日常茶飯事じゃないですか?

 しかも大衆酒場なんてものは、まるであえてカモフラージュしたかのように、都市の雑多な灰色に溶け込んでいることが多い。なんなら「隣の店ではよく飲んでたのに!」なんてことすら起こりうるのが、街の楽しさでもあります。

 この「見える人にしか見えないお店」という概念。少しだけ偉そうに言えば、「その街で一定の飲み経験を積むと見えるようになる」と定義したほうが、より正確かもしれません。

 街に慣れ、知ったお店も徐々に増え、やがてちょっぴりマンネリを感じてきた頃に、お酒の神様がくれるプレゼント……とまで言うと、ちょっと気どりすぎですかね。

 またそういったタイプのお店には名店が多く、一歩中に入ると、「普段慣れ親しんだ街にいるとは思えない」という異世界感を味わえたりして、そんな感覚もまた、酒飲みにとっての大きな楽しみのひとつでしょう。


 見える人にしか見えないお店の代表格といえば、渋谷にあった「細雪」。

 京王井の頭線渋谷駅の西口改札を出ると、なんと1軒目、つまり改札の真横にありながら、その存在に気づくまでには、本当に長い年月を要しました。

 そもそも僕、以前は渋谷という街に対して少し警戒していたところがあり、「はいはい存じております。ここはオシャレな若人さんたちのための街なんですよね? 場末が似合いの酒飲みは、用事が済んだら早めにおいとましますんで」ってなもんで、はなから自分を受け入れてくれるようなお店なんてないと決めてかかっていた。

 そりゃあ街だって、見せてくれないですよね。「見える人にしか見えないお店」。

 細雪の存在に気づき、初めて入った時は本当に感動しました。

 こぢんまりとした店内の床は、外の地面と変わらないようなコンクリート製。ふたりがけや4人がけの席がいくつかある他に、厨房近くにひときわ大きなテーブルがあって、そこは常連の先輩方が集まる特等席。

 その時は僕ひとりだったのですが、お店の混雑状況などの関係でしょう、この特等席に「ここでもいい?」と通され、およそそれまで渋谷の街では見かけたことのなかった、「あ、こちらにいらっしゃったんですね!」っていう、味のあるツラがまえの親父さんたちにガンガンに話しかけられながら、やたらと濃いホッピーセットで酔っぱらったことを覚えています。

 口数の少ない大将と、愛想の良い女将さんのおふたりで営業されていますが、他に、いつ行っても必ずいる常連のおじさまがひとり。常にかいがいしく手伝いをされており、僕がその方を店員さんじゃないことを知るのは、ずっとあとになってからのことでした。

 名物は「肉豆腐」。半丁分はあろうかという大きな豆腐と、くたくたに煮込まれた豚肉に、玉ねぎ、それらが、およそ「飲食店」というイメージからかけ離れた雑さで、ドサッと皿に盛られて350円。

画像2


 丸々と太って脂ののったイワシが2尾の「丸干しいわし」に、豚肉やモヤシもたっぷり入った「ニラいため」も良かったなぁ。

 油断して飲むと1杯で潰されてしまうほどナカの濃い「ホッピーセット」は350円。「チューハイ」は300円。

 何もかも、とても都心の一等地で営業しているとは思えない安さで、まさに「渋谷の奇跡」としか言えないお店でした。


 そんな名店もまた、2017年の3月いっぱいでその歴史に幕を下ろしてしまいました。

 ファンの多いお店ですから、営業終了日に向けては大いににぎわったようです。

 僕も運良く一度、閉店数日前の細雪に空席を見つけ、飲むことができました。その時は友達と、それまでは手が出せなかった高級品の「日替わり刺身」(といっても550円からあって、絶品)や、なじみのおつまみを惜しげなく頼み、思う存分飲みましたよ!

 最後に大将にむりを言い、普段は「魂を抜かれるから」などと絶対にOKしてくれない記念写真を一緒に撮らせてもらったのですが、見返すたび、寂しさと、細雪のなんともいえない幸福な空気感が思い出される、切ない1枚となりました。

酒場っ子メモ 渋谷の大衆酒場の雄、巨大な地下空間の立ち飲み「富士屋本店」も、2018年秋に営業を終了してしまうそうですね。あぁ、切ない……。


パリッコ『酒場っ子』(スタンド・ブックス)26p~31p 
「見える人にしか見えないお店
 渋谷「細雪」」


いいなと思ったら応援しよう!