ひらいたまま、閉じ続けること──Twitter、ラジオ、部分と全体、親愛なる
定期購読マガジンをはじめます。論考やエッセイ未満の、日々の気づき。それをエスキース(下絵)のようにラフなタッチで、でも切実な気もちで限定された読者に向けて書いていきます。ひらかれた場所に記すには、あまりにもか弱かったり、プリミティブだったりする感情をここに記していきます。
月4本目安にエッセイを。初月は無料になっているはずです。たまにイラストやプライベートな写真も。他では書かない直近の仕事のこと、現在の読書やメディアについて、ときどきの文化的事象、ときどきのスポーツ、お料理、魚、精神医療などなど。
テキストの主要な部分は無料でもある程度読めるようにしつつ、有料読者には「親愛なる」何かを見られるようにしておきたいと思っています。
情報が常に乗算的に増えていく中で、個人的なインプットの対象から「無料で読めるテキスト」を出来るだけ除外しはじめた。なぜならそれは実際のところ無料ではないから。実質的に無料でできるWEB体験の裏側には、ぼくらの実存や行動をベースにしたビジネスが常に走り続けている。当たり前のことなのになぜか忘れていて、ふとそれを思い出すと怖い話を聞いた時のようにぞっとすることがぼくにはある。
これまでに何度もTwitterをやめようと思ったことがある。
いや、ことがあるなんてレベルではなく毎週のように思っている。近年特にアーティストの友人がTwitterから離れることが増えて、そのたびに「英断だ!」と拍手をしたい気持ちになる。
実際にぼくは毎週Twitterをやめている。
月曜深夜にパーソナリティを務めているラジオ番組「ON THE PLANET」の放送から帰宅するAM4時のタクシーの中、あるいは始発の半蔵門線の中で、iPhoneからアプリケーションをアンインストールする。都営新宿線に乗り換えると、次第に電車は地上へと上昇し始める。この季節、早くも朝の光が差し込んでくる車内の中で安堵する。そうして次の月曜の放送時に 「#オンプラ」を通じて全国のリスナーと対話するために、Twitterのアプリケーションをまたインストールするのだ。
年目になったラジオパーソナリティという仕事は、とても合っている気がする。全国各地から届けられるメッセージを読む時、目を閉じるとそのひとの生活が瞼の裏にぼうっと灯る時がある。
TOKYO FM
RN|瀬戸内は夜の7時さん
武田さんスタッフの皆さんこんばんわ、今日のテーマですが、ぼくはやっぱり冷えたコーラですね。農作業のあとひと休憩入れる時の、キンキンに冷やしたコーラが自分の夏の定番のドリンクです。
なるほどねえ。汗をかいた後のコーラ、格別ですよねえ。ぼくは高校の時野球やってたんですけど、あんま炭酸飲んじゃいけなくて、それでもこっそり練習の後の夕方に飲んだコーラ、あれ最高においしかったなあ!
そうやって喚起される自分のコーラ体験を語る時、ぼくに自分の昔話をただ楽しく話しているという感覚はない。ラジオはリスナー同士がパーソナリティを媒介にゆるやかにつながって連携しながら、そのままそれぞれの生活の中で音楽と会話を味わうメディアだ。だからぼくの個人的なコーラ体験は、ひとつのスパイスのようなもので、それをトリガーにしてそれぞれがそれぞれのコーラ体験を思い出してもらうことに価値がある。
その時ぼくはほとんどメディアとして振る舞っている。リスナーの日常と、ぼくの思考や物語がつながりだす。部分と全体が、相互にいたわりあうように。
◆
で、毎週月曜にリスナーとのやりとりを終えたあとTwitterをアンインストールしながら帰宅するとき、よくデジタルメディアが自分の活動を強く支援してくれていた時代のことを思い出す。2000年代、デジタルメディア全般には希望のようなものがあった。こっからゲームが変わるぞ、という機運の高まりと静かな熱狂があった。
それはネオリベラリズムここに極まれりといった現代のビジネスベースの「熱狂」ではなく、もっとプリミティブな「新しいメディア環境へのワクワク」みたいなものだった気がする。CEOはもっとビジョナリーで、ビジネスの人びととクリエイティブな人びとが、同じ空間で未来をもっと語り合えていた気がする。
そのごく短い熱狂の期間は、ぼくたちが『界遊』という雑誌をつくって世に出ようとしてた時期とほぼ重なる。mixiで好きなものについて記述しテクストを通じて人と出会うことに味をしめ、はてなブログで批評合戦を楽しんでいたぼくらは、その後やってきたTwitterにすぐ飛びついた。はじめに言葉があった、と世界の始まりが記述されていたように、その後言語以外のものでコミュニケーションを行うサービスが多発していった。Ustreamで、ニコニコ動画で、Tumblrであるいは──記憶の彼方に飛んでしまったものを含めて、様々なツールを並行しながら自らのアウトプットで「世の中」のようなものとつながっていった。
その時代にデジタルメディア上にアウトプットすること──コンテンツの種別は問わず自らの価値観を何かに込めて表明し提示すること──には、まだ閉ざされた世界をつなぎ合わせる豊潤さをはらんでいた。端的に、偶然飲み会で出会った人とこんなにも深い話ができた! みたいな、感動的な一夜の出会いがぼくの周りではオフライン/オンラインの種別を問わず、毎日のように起こっていた。
それがいったいなぜこんなに人の心を蝕むようなものになってしまったのか。それをここでちゃんと検討することは避けたい。これからぼくが記して行こうとするこれらのnoteは、そういうきちんとした論述から外れた、素描のようなことば、あるいは仲間内でのカジュアルな議論のようなものでありたい。
でも一言だけでいうなら、これは構造的な問題だということだ。ユーザーのリテラシーが下がったわけでも、質の低いユーザーが大量に訪れたわけでもない。ただビジネス上優先される数値を追っていくこと=是となっている社会が生んだ構造的な問題だ。その端的な現れだ。
そう、今足りないのは口語のようなカジュアルなレベルで出力される、思考のプロセスを記述したテキストだって思う。それを書くことのできる場所が、なくなってしまった。未完成で未成熟なテキストは、行き場をなくしてしまった。隙のあることばが許されない時、その隙こそが伸びしろだった世界線も同時に放擲されてしまっている、と感じるのはセンシティブすぎるんだろうか。
最後までありがとうございます。また読んでね。