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1歳児育児から考えた、ルーズなニーズとインサイトのきらめき

1歳3ヶ月になった娘・イオの様子が、最近ちょっと変わってきた。

1歳なったばかりのころ、眠くなると「ねんね」といって、自ら毛布を持ってきたり、寝室に行く素振りを見せていた。「なんておりこうなの!」とよろこんでいたのだが、最近では「ねんね」といわれ寝る用意を進めても「ないないっ!」と怒ったように首を振る。そして泣く。

 どうやら「ねんね」=寝たい、ではなくなってきているようだ。

 じゃあ「ねんね」とはなんなのか。
 観察してみるといくつかのパターンがあるようだった。

  • シンプルに眠いとき(=これまでの「ねんね」)

  • 親の膝の上でおやつを食べながら「シナぷしゅ」などを見たいとき

  • ラグの上でゴロゴロしたいとき


これまで一直線に睡眠を指していたのが、少し抽象的になっている。いまの彼女にとっての「ねんね」は、「まったり」や「チルアウト」(もうあまり使われませんね……笑)に近いようなのだ。

ここでふと、「ニーズはルーズである」というひとことを思い出した。でもこのパンチラインを紐解くその前に、いったん基本のおさらいをしておきたい。

2種類あるというニーズ


ニーズとはなんなのか。
これは、消費者の意識下にある欲望や感情のこと、とされている。
ニーズには2種類あり

  • 顕在的ニーズ

  • 潜在的ニーズ

に分けられる

顕在的ニーズは、消費者自身が自覚している欲求・感情のこと。
潜在的なニーズは、消費者自身は自覚していないが、他者とのコミュニケーション(=会話、インタビューなど)を通じて自覚可能、言語化可能になる欲求・感情のこと。

たとえば、忙しい生活の中でもゴミを残さず掃除がしたいという消費者Aがいたとする。Aが持っている古い掃除機は吸引力が悪いから、より吸引力の高い掃除機をほしいと思っている。これが顕在的なニーズだ。

そんなAが家電に詳しい友人とのおしゃべりで「忙しい中できれいに掃除したいなら、吸引力で決めるんじゃなく、ロボット掃除機を導入したほうがいい」と勧められ、そうかその手があったか、と感じたとしよう。これが潜在的なニーズだ。

さて、ここで本題の「ニーズはルーズである」の出番だ。
これはデザイナー・原研哉さんが、自身のブログで指摘されていたフレーズ。ぼくはデザイナーの妻から教わって、大切にしていたことば。遡って調べてみると、なんと出典は2011年に書かれていたエントリだった。

その中で、原さんはこんなふうに語っている。

人々の希求に応じてものが生み出されるなら、希求の質がものの質に作用する。おなかの希求に添ってベルトの穴を緩めていくと、しまらないファッションが出現するだろう。「ニーズ」は往々にしてルーズである。だからニーズには教育が必要だ。

Education of Desire / 欲望のエデュケーション

消費者が自覚できる欲望にそってデザインし、商品やサービスをつくるのでは、ただむやみと太らせてしまうことに繋がる。そのためには、希求の質を上げるための教育が重要だと、すでに14年前から指摘していたのだ。

エントリはこんなふうに続く。

エデュケーションという言葉には、教育というよりも潜在するものにヴィジョンを与えて開花させるというニュアンスがある。デザインとは、ニーズの質、つまり希求の水準にじわりと影響をおよぼす緩やかなエデュケーションでなければならない。

(中略)

ふくらんだ希求に呼応してものが生み出される、その無数の循環と連繋によって、文化の土壌が出来上がっていく。デザインとは土壌の質への関与なのである。

Education of Desire / 欲望のエデュケーション


デザインが「土壌の質への関与」なのであれば、ぼくは編集もそうあるべきだと感じる。

インサイトのきらめき


さて、マーケティングの世界では、ニーズに対して、インサイトということばの重要性が語られることが多い。原さんが欲望のエデュケーションを施して向かうべき先だと示したのも、これに近いものだと思う。

インサイトとは、消費者自身が自覚できていない無意識下・深層心理下にある、欲望・感情のことだ。

上のAの掃除機の例をもう一度考えてみる。

・顕在的なニーズ:吸引力の高い掃除機に買い換えたい。
・潜在的なニーズ:ロボット掃除機を買って掃除の効率を上げたい。

ではなぜ、忙しく過ごしているAは、掃除機を買い換え、掃除の効率を上げたいのだろうか。

そのぶん生まれた時間を使って、1歳になる娘ともっと触れあいたいのではないか。彼女の食事をちゃんとつくる時間に充てたいのではないか。
これが、インサイトなのだ。

少しまでのイオは、「ねむたい」という顕在的なニーズをちゃんととらえ、それを親のぼくたちに「ねんね」と伝えてきてくれていた。

最近になって、きっと彼女は気づいたのだろう。「ねむたい」だと思っていた感情の中に、もっと細やかな感情の種があって、それがグラデーションのように並んでいることを。

「さびしい」も「だるい」も「心細い」も「さびしい」もすでに彼女は感じている。でも、それに自覚的に過ごすことはまだできない。もやもやとした感情を表現することばも持たないから(まだ二語文は話せない)、ひとまず手持ちカードの「ねんね」を使ってみる。

おろかな親はそれを「ねむたい」だと勘違いばかりするから、必死に違うんだという気持ちを伝えるために、首をせいいっぱい横に振って「ないないっ!」という。困った表情を浮かべるママとパパを見て、そのふがいなさ、伝わらなさから涙を流す。

イオはすでに、複雑な感情を持つりっぱなひとだ。

彼女はきっと潜在的なニーズの存在にも、気づきはじめている。今朝、「ねんね」といった彼女を抱えて膝に乗せ、頭からゆっくり全身をなでてあげると、こちらに振り返ってにっこり笑った。

その笑みは「こうしてほしかった」という欲求が満たされたというよりは、「自分はこうしてほしかったのか」という感情への気づきとして現れているように、ぼくには見えた。

彼女がインサイトの存在に気がつくのは、いつだろう。
そう考えてみたらその入り口は、2歳ごろになるとやってくるという、イヤイヤ期なのかもしれない。

なにもかもがいや。自分がなにをしたいのかが、わからない。感情が爆発して、世界そのものを拒絶するように泣き叫ぶとき、彼女のこころの深いところを流れている水脈に、きらりと光るインサイトがきっとある。

それをいつか探しにゆきたい。
きみと一緒に深い流れの中で、生まれてはじめてのきらめきを見つけたい。

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武田 俊
最後までありがとうございます。また読んでね。