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海千山千(老獪)予備軍にならないための戒め

海千山千(うみせんやません)
→ 世間の裏表に通じた老獪な輩をいう。

恥ずかしながら、初めて老獪という言葉を聞いた。

老獪(ろうかい)と読むらしく、経験を積んでいて悪賢いことを意味するらしい。

輩という言葉がある以上、あまりいい意味の言葉ではないだろうという予想はできていた。

海千山千、たくさんいるなという印象だ。

そして、海千山千にならないようにしないといけないと思う。

何度も書いていてしつこくて申し訳ないが、間もなく40歳を迎える。

30代を終えることに関して複雑な気持ちだ。

20代を終えて30歳を迎えたときよりも圧倒的に歳を重ねることに抵抗したい気持ちがある。

明らかに現役でいられる時間に制限が生まれていく。

そんな中、せっかくなので20代の頃からの振り返りをしてみようと思う。

20代の経験について

20代の前半は大学生だった。

これも何度も書いているが、広島にいることが嫌で嫌で仕方なかった。

1人介せば誰かと繋がる村社会に本当にウンザリしていた。

たかだか1歳や2歳しか歳が変わらないのに先輩ヅラする人たちがまだまだたくさんいた時代が、いわゆる青春時代と重なった世代だ。

そんな環境にいたからこそ、東京に憧れた。

広島と東京は物理的にも相当離れているので、なかなか行くこともできなかった。

ただ、私の場合は同級生が高校を中退して千葉県我孫子市にいたこともあり、東京方面に何度か行くきっかけがあったことはいい刺激になった。

高校を卒業したら絶対に東京しかないと決めたのも、そんな青春時代を過ごしたからかもしれない。

広島にいる人は県内でのみ生涯を終える人と、積極的に県外に出ていく人で二極化している。

高校を卒業して大学進学という切符を手に入れて上京した。

大学生という時間

これも書いてきたことだが、大学に進学したといっても特にやりたいことがあって大学に行ったわけではない。

ただただ東京に行きたいという気持ちが強く、両親にも頼りっぱなしの堕落した大学生だった。

そのくせ妙にプライドが高く、自分はどこか他の人とは違うという変な自信を持っていた。

大学3年生になると、周囲は就職活動を始めた。

大学のキャンパスには、就活用の書類を配っている人たちで溢れかえる時期も全く興味のなかった私はスルーしていた。

そんな中、心配してくれた同級生に連れられて、就職活動の一環を見せられることになる。

大学内の講堂に大学3年生が集い、多くの企業の採用担当者が来ている光景は未だに覚えている。

内容は全く覚えていないが、講堂に集められた学生からの質問タイムが訪れた。

経済学部3年の〇〇ですという冒頭で質問が始まる。

それに対して企業の採用担当者が淡々と回答をする。

それが終わると、また別の学生が文学部3年の〇〇ですと質問を投げる。

そして企業の採用担当者が回答をする。

このくり返しが淡々と行われている姿に気持ちが悪いという違和感しかなかった。

同級生に毎回こんなことが行われているのかと聞くと、コイツはなにが聞きたいのだろうというような顔でそのとおりだという答えが返ってくる。

こんなことをやっていてはダメだと直感で思った私は二度と行かないと決めて、自分でどうするかを考え始めた。

結論、大学を卒業したが大学で学んだことは1つもない。

大学卒業までの時間

とはいえ、大学を卒業してからなにかをしなければならない。

ただ、就職活動はする意味がないし、別に働きたいと思う企業もない。

そんな中、自分に興味があることをいろいろと探してみた。

するとなぜか当時は特許という権利について不思議と興味を持っていた。

20年間独占的に与えられる権利というものに強烈な力を感じた。

弁理士という、そんな特許を取るために活躍する人たちがいることも知った私は弁理士に憧れた。

自在に特許を操れるなんてカッコ良すぎるというミーハー心も大きかった。

それから、同級生たちが就職活動に勤しむ中、私は弁理士資格を取るために勉強を始める。

ところが、弁理士試験はそんな簡単に合格できるものではない。

1年に1回しかない試験なので、1年やってダメなら翌年に持ち込むしかない。

それを2年やってみたが、結局ダメだった。

弁理士試験合格を諦めるきっかけ

弁理士試験を受けている間に大学を卒業した。

卒業後はとあるスタートアップでバイトをさせてもらいながら、弁理士試験の勉強をする生活をしていた。

ところが、先述したとおり、2年連続で不合格という結果だった。

2回目の不合格が確定したとき、当時働かせてもらっていたスタートアップの社長に報告を入れた。

そのときのやり取りが私の人生を決めることになる。

その社長にずっと弁理士試験の勉強を頑張っていたからいわなかったけど、なぜ弁理士になりたいのかと聞かれた。

それは特許という権利が与えられることに携わってみたいからだと答えた記憶がある。

私の回答に対して、でもそれってずっとやりたいことなのかと問われた。

私は返す言葉がなかった。

話は続いた。

俺らはそういった資格を持っている人たちを仲間にして、自分のしたいことを実現していくことを選んでいる。今の時点で1つのことしかしないということを決めるのは、はやすぎるのではないか。

私は弁理士になることだけしか見ていなかった。

ガツンとハンマーで頭を殴られたような感覚があったことは記憶に新しい。

40代を迎える前に

弁理士になることをスパッと諦めてから、今に至るわけだが、今の私は弁理士の先生たちとやり取りをしている。

stakで特許を取ることや商標の申請をしたりと、依頼する側として何人も弁理士の先生に会ってきた。

20代前半の弁理士試験の勉強をしている自分が見たら、どう思うだろうか。

過去の自分に恥じることのないよう、未来の自分の可能性を信じて突き進もうと改めて思うのである。

40代は集大成を見せつけていこうではないか。

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株式会社stakは機能拡張・モジュール型IoTデバイス「stak(すたっく)」の企画開発・販売・運営をしている会社。 そのCEOである植田 振一郎のハッタリと嘘の狭間にある本音を届けます。