イソップ物語を基にした猿と猫という寓話
火中取栗(かちゅうしゅりつ)
→ 自分の利益にならないのに、他人のために危険を冒すこと。また、自ら危険を冒す意でも用いる(火中の栗を拾う)
自己犠牲の精神をあなたは持っているだろうか。
自慢ではないが、この質問に対して私は明確に、Yesと胸を張っていえる。
火中の栗を拾う行為をあなたはどう思うだろうか。
火中の栗を拾うの由来
火の中の栗を拾うことは危ないことは誰でも理解できるだろう。
つまり、他人の利益のために、あえて危険を冒すことの例えとして用いられる言葉なのだが、その語源というか由来を知っているだろうか。
17世紀のフランスの詩人、ラ・フォンテーヌが、イソップ物語を基にした「猿と猫(Le singe et le chat)」の寓話に由来しているといわれている。
イソップ物語には、北風と太陽、うさぎとかめ、アリとキリギリスなどのメジャー作品があり、そのあたりの話は子供のころに聞いて覚えている人も多いだろう。
でも、猿と猫という寓話を聞いたことがあるという人は少ないのではないだろうか。
ということで、猿と猫のストーリーを手短に書いていこう。
猿と猫(Le singe et le chat)という寓話
むかしむかし、猿と猫がペットとして同じ家で暮らしていた。
二匹はとても仲良しで、いつも一緒に多くのいたずらをして過ごしていた。
そんな二匹が何よりも大切にしていたことは、とにかく食べ物を得るということだった。
その手法、どうやって手に入れるかといった過程は大して問題ではなく、とにかく食べ物を手に入れることが最優先という暮らしである。
そんな日々を過ごしていたある日、二匹は火のそばにすわり、暖炉で主人が栗を焼いているのを見つけた。
栗が熱くて簡単に手に入れることができないことは二匹とも理解している。
栗を手に入れるためには、どうやって取るかを考えなければいけない状況というわけだ。
そこで猿が仕掛けた。
僕が栗を取ってもいいんだ。
猫は猿の話に耳を傾けていると、猿が話を続ける。
だけど、栗を取るのは僕よりも君の方がずっと上手なはずだから、栗を引っ張り出してくれたら、僕が半分に分けるよ!
そういわれた猫は、わかったと慎重に火の中に手を伸ばした。
もちろん、火の中は熱いに決まっている。
燃えている薪をどけては、サッと手を引っ込めるというくり返しだ。
何度も何度もくり返して、ようやく1つ目の栗の半分を火の中から手元に引き寄せた。
もう少しだということで、まだ何度もくり返して、やっとの思いで1つ目の栗を火の中から取り出した。
猫はこれを何度も何度もくり返して、火から栗を出すのだが、出てきた栗を瞬く間に猿は食べていた。
そんな行動に気づいていない猫は、栗を取り出す度に手にはひどい火傷を負った。
猿と猫からの教訓
要約すると、猿におだてられた猫は、暖炉の中の栗を拾ったが、火傷を負っただけで栗は猿に食べられてしまって、踏んだり蹴ったりだったというものだ。
このことから、火中の栗を拾うということは、ポジティブに捉えられることはない。
例えば、そんな仕事を引き受けるなんで、火中の栗を拾うようなもので、君にはなんのメリットもないし利用されているだけだみたいな使われ方をする。
つまり、猿のようなずる賢い人に騙されて、損をするなという戒めとして使われるのだ。
でも、個人的にはここにすごく違和感を覚えてしまうのだ。
猫は火の中にある栗を拾うことが危険だということが、わからなかったのだろうか。
そんなはずはないと思うのだが、もしわからなかったとしても、何度もくり返し火中に手を突っ込んでいるわけだから、熱いことは途中でわかったはずだ。
けれども、その行動を止めずに、結果いくつもの栗を取り出すことに成功している。
結果、栗を食べることはできなかったが、成果はきちんと出しているのである。
ここが全く評価されていないことが違和感で、次に同じような境遇に立たされたときには、火傷を負わない方法を考えるのではないだろうか。
一方で、猿は誰かまた犠牲者を作らなければ栗を手に入れることはできない。
何度かは犠牲者を騙すことはできても、そんなことが都合よくずっと続くわけがない。
であれば、苦い経験をした猫の方が、よっぽど未来があるというのが私の見解だ。
おまけの寓話
ちょっとテイストが違うのだが、犬と狐という寓話もある。
数匹の犬がライオン死骸を見つけて、ライオンの皮をすごい勢いで噛み裂き始めた。
そんな姿をたまたま一匹の狐が見つけて、さげすんで大笑いした。
そのライオンが生きていたらどうなってる?
狐の話は続く。
ライオンが生きていたら、そう簡単に皮を引き裂くことはできなかっただろうね。君たちの歯よりもライオンの爪の方がどれだけ鋭くて凶暴か、君たちは思い知っただろうよ。
この寓話は、倒れている人を蹴ることは誰にでもできる簡単なことで、卑劣だということを教訓としている。
猿と猫の猿、犬と狐の犬、どちらの立場にもならないようにしたいと思っているが、世の中にはそういうタイプの人も多い。
まとめ
ちなみに、猿と猫の話の締めくくりはこんな感じだ。
火中の栗を拾っていた猫、そんな栗を我が物顔で食べていた猿、そんなときに主人がドアを開けて部屋の中に入ってきた。
その途端、二匹とも怒られると思って大慌てで暖炉から一目散に逃げていった。
そのときから、猫はねずみを食べることで満足し、猿とは関係を持たなくなった。
一度しかビジネスパートナーとして成立しなかったということだ。
冒頭の話に戻ろう。
あなたは火中の栗を拾った猫のような行動が取れるだろうか。
自慢ではないが、この質問に対して私は明確に、Yesと胸を張っていえる。
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