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選曲論
ルーティン制作においてクラタクミが考えている「選曲論」を公開します。
私の選曲論は下記の通り要約されます。
選曲には正解が存在する
歴史を根拠に選曲しよう
楽曲は定量的に評価しよう
それぞれ章立てして解説していきます。
【重要な前置き】
この選曲論を、私は自分のルーティン制作のみに使用します。特に大会の審査において、この選曲論に則って演者を評価することは絶対にありません。
①選曲には正解が存在する
大喜利の「正解」という概念
お笑い企画の大喜利では、稀に「これを超える回答は存在しない」と確信するレベルの名答が披露されます。
動画はYoutubeチャンネル「大喜る人たち」より。
開始から2分過ぎ、ハチカイ警備員さんの名答に会場が大きく沸きました。
こうした名答は「正解」と呼ばれます。
正解が登場すると、後続の回答は変化球が増え、次のお題に移りたくなります。
選曲は大喜利に似ている
ルーティン制作において、大喜利のお題にあたるのは「今のジャグリングスタイル」です。そして大喜利の回答にあたるのが選曲です。
今のジャグリングに最も適したルーティン曲は何か。その答えは無限(※)に存在します。
大喜利と同様、選曲にも「正解」が存在します。その正解率を高めるメソッドこそが、今回の選曲論です。
【※無限警察の方へ】
この世に存在する楽曲全体の集合を$${\mathbb{M}}$$とする。
ジョン・ケージの『4分33秒』が楽曲である以上、
$${\forall r \in \mathbb{R}_{\geq 0},\ 『r秒』 \in \mathbb{M}}$$
より、$${\mathbb{M}}$$は非可算無限集合である。
選曲論のメリット
選曲論の最大のメリットは、「今のジャグリングに固執しなくなること」です。
コロナ禍のイベント「零」のdiscordにて、山村佑理さんが「ジャグリングは続けた者勝ち」という旨を仰っていました。
ジャグリングを続けるには、自らのジャグリングのアップデートが不可欠であると私は考えます。
今のジャグリングスタイルを堅持するのは尊い姿勢です。しかし穿った見方をすれば、それは老いや時代の変化といったリスクの連続に他なりません。
今のジャグリングに固執しないよう、正解を見つけて次のお題に移りましょう。正解の選曲はジャグリング寿命を延ばします。選曲論はその為に存在するのです。
②歴史を根拠に選曲しよう
普遍的でない選曲を避ける
正解の選曲は、観客の100%にリーチする選曲でなくてはなりません。そのため、私は次の理由での選曲を絶対に行いません。
自分が好きな曲だから
世間で流行りの曲だから
自分が好きな曲を、同じく好きな観客がどれだけいるか?
せいぜい50%未満でしょう。
世間で流行りの曲が、ルーティン制作後も流行っている確率はどれほどか?
ほぼ0%でしょう。
普遍的でない選曲は正解率を落とします。では、どうすれば普遍的な選曲を実現できるでしょうか。
「歴史的選曲」という考え方
私が採用するのは、「歴史を根拠とした選曲」です。
例として拙作、JJF2021CSのルーティンを挙げます。
(曲名:Michael Meets Mozart / The Piano Guys)
このルーティンのコンセプトは下記の通りです。
『Michael Meets Mozart』は、日本人が長らく雲の上の作品と捉えてきた海外スタッフ映像『no sweat』の使用曲である。この曲にスタッフのもう一つの完成形を与えることで、海外スタッフ界へのコンプレックスを打開する。
師匠かとけい氏は、国内ジャグリングシーンにおいてスタッフの存在感を強く示した。日本のスタッフを象徴する演技を志し、技系統は彼の代名詞「フィッシュテール」のみとした。
The Piano Guysの楽曲は、過去にJJF2015のIke氏、JJF2018のNissy氏も使用した。これにスタッフが続くことで、先進するスイング道具であるポイに対する憧憬を乗り越える。
曲名の意味は『マイケル・ジャクソン、モーツァルトに出会う』である。作曲者のコメントは無いが、私はマイケルのモーツァルトに対する心情を「憧憬」と解釈し、自らをマイケルに重ねて演じる。
たとえこの曲が嫌いでも、たとえこの曲がマイナーでも。選曲の根拠にある歴史的事実だけは、誰一人として否定できません。
観客100人のうち100人が認めざるを得ない選曲、それが「歴史的選曲」です。
歴史的選曲というのは、
「この曲でジャグリングしたい」という個人的希望ではなく、
「この曲でジャグリングせねばならない」という宿命なのです。
歴史的選曲のメリット
歴史的選曲の最大のメリットは、演技構成の説得力です。
例えば『Michael Meets Mozart』制作において、
私はマイケル・ジャクソンのダンスを参考に振り付けしました。
更に「音符一つとしてカットできない」と皇帝に述べたモーツァルトに倣い、シーケンスは必然の流れを常に追求しました。
選曲の歴史的経緯が確かであるほど、演技細部のあるべき論に対して、歴史が助言してくれます。
そうして制作されたルーティンは、全ての演技構成が然るべき形をなし、最強の説得力を伴うのです。
③楽曲は定量的に評価しよう
当然ながら、選曲して終わりではありません。選んだ楽曲を評価する工程が存在します。
評価の結果「これは正解ではない」と判断した楽曲は、たとえ歴史的経緯が明瞭でも、迷わず不採用にします。
それでは、いかに楽曲評価を行うか。これについても選曲論を展開します。
感情的な楽曲評価を避ける
「調性格論」といって、楽曲の調を感情と対応させる主張があります。
興味深い主張ですが、しかし私は、調性格論に対して極めて懐疑的です。
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調性格論に登場するような「明るい曲」「悲しい曲」「愛の曲」という類の言葉は、主観的な楽曲評価を生みます。これは感受性の異なる観客(私もその1人です)にリーチしません。
感情的な楽曲評価は選曲の正解率を落とします。
「音楽で人の心は動かない」と割り切るぐらいが、楽曲評価の心構えとして丁度良いのではないでしょうか。
【別視点】
そもそも「明るい技」「悲しい技」「愛の技」という概念がジャグリング界に存在しません。
従ってルーティン制作にあたり、調性格論レベルの楽曲評価は過剰である、という考え方もできますね。
「定量的評価」という考え方
楽曲評価にあたり、私が必ず守っている原則があります。
それは、下表の形容詞以外を絶対に使わないことです。
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これらは科学的な指標(dB、bpm、Hz)のある、いわば定量的な形容詞です。
これ以外の形容詞を排することで、主観を排した楽曲評価が実現できます。これが楽曲の「定量的評価」です。
定量的評価に使う形容詞には、呼応するジャグリングの演出が存在します。
例として、再度JJF2021CSの拙作を挙げます。
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上図は『Michael Meets Mozart』冒頭1分半の楽曲評価、及びそこから決定したジャグリング演出の内容です。
もし興味があれば、各吹き出しの記載を動画と見比べると面白いと思います。
重要なのは、定量的評価によって、その楽曲でどんな演出が可能か決定できるという点です。
そして「最も多くの演出が可能な楽曲」こそが、私の選曲論における「正解」です。
私の選曲論は、標語的に言えば下記の通りです。
ルーティン曲とは、歴史的に選び、定量的に検め、
最大の演出数を有した楽曲のことである。
定量的評価のメリット
定量的評価の最大のメリットは、ジャグリングの自由を守れることです。
ジャグリングには、何の力もありません。人を救う力も、愛を伝える力も。だからこそ、ジャグリングは素晴らしいのです。
上手くなっても社会的地位の向上しない趣味であるからこそ、ジャグリングはどんなスタイルにも寛容で、本当の意味で自由です。
そんなジャグリングの自由さが私は大好きで、強く守りたいと望みます。
世間では、しばしば「音楽には力がある」と主張されます。
故・坂本龍一氏は「音楽の力」という言葉に対し非常に懐疑的でした。
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こうした音楽への過信は、「音楽は人の心を動かす」という認識から生まれると私は考えます。
人の心を動かすからこそ、音楽は社会から求められ、音楽家は社会的地位を獲得するのです。
ルーティン制作は、音楽とジャグリングとを共存させる営みです。その営みは、音楽に倣い「ジャグリングにも力がある」と過信するリスクを伴います。
定量的評価は「音楽で人の心は動かない」という前提に立脚します。この前提こそが、ジャグリングへの過信を排し、ジャグリングの自由を守るのです。
【補足】
誰にも「音楽の力」の存在は否定できません。
坂本龍一氏は生前、積極的な環境活動を行いました。その発言力は音楽家としての社会的地位に由来します。
「音楽の力」に懐疑的であった彼さえも、「音楽の力」への依拠は免れませんでした。
「音楽の力」を否定するのではなく、ジャグリングとは本質的に異なるとして線引きを設けるというのが、この選曲論の意図するところです。
あとがき(音楽との和解)
過去のイヤな音楽体験がトラウマで、私は14年以上、可能な限り音楽を耳に入れないよう生活しています。
本稿は、そんな逆境からの再生のため、自分自身へ宛てた鼓舞のトピックです。
たとえ「音楽」という言葉すら苦痛な私でも。
それでも、いや、それだからこそ。
だからこそ私は、至高の選曲を志向できるんだ。
選曲論の執筆を経て、音楽との和解に向けた一歩を再び踏み出す勇気を得ました。本稿を閲覧いただいた全ての方へ、心より感謝申し上げます。
今後も音楽との和解を諦めず、残りの人生に期待して生きます。ありがとうございました。