Facebookから見えるSNSの問題点
「アンチソーシャルメディア Facebookはいかにして「人をつなぐ」メディアから「分断する」メディアになったか」を読んだので、そのまとめと感想をまとめてみた。
最初に
まず、なかなか刺激的なタイトルの本書であるが、作者は「グーグル化の見えざる代償」(2012年)を著述したシヴァ・ヴァイディアナサンという人で、この本では、日常生活にはもはや欠かせない「検索」において、Googleに頼らざるを得ない現状に対して警告を発していた。
今回紹介する本では、これまた現代の生活に欠かせないSNSの問題点をFacebookを取り上げて指摘している。
※Facebookは、世界的に最も使用されているSNSであり、だからこそ本書で指摘されるようなことが多くの人に関わる問題なのである
※※日本ではTwitter(現X)の方が人気であるが、日本以外の国ではそうではなくFacebookの方が広く利用されている
本題に入る前に、まず重要なことは(本書でも紹介されているが)Facebookは膨大な情報を集めているということである。
恐らく我々が自覚している以上に、である。
Facebookとその傘下であるInstagramやWhatsAppからの直接的な情報収集だけでなく、「オープングラフ」という仕組みや追跡用クッキーを利用して「めったにログインしない人からも膨大な個人情報を抜きだせる」と著者は指摘している。
また、「大手データマーケティング会社からクレジットカードの購入履歴とプロフィールデータを購入して」おり、その情報とWebでの行動履歴を組み合わせることによって、より詳細な追跡情報を入手している。
※ちなみに、このことは隠されているわけではないが、積極的に大っぴらにしているわけでもないそう
善意の試み
まずこの本の結論を述べるなら、ザッカーバーグによる”人々を繋いで世界をより良くしよう”という善意によって、逆に世界は分断された、ということである。
著者は以下のように批判する。
アテンションエコノミー
アテンションエコノミーとは、関心を集めることを中心に据えた経済のことで、現在のSNSがそれにあたる。
関心を集めることによって話題が盛り上がるが、効能はそれだけではない。広告の効果が高まるし、収集した情報によって最適な広告を打つこともできる。つまり、関心を得ることが経済的な利益を得ることにつながるのである。
後述するが、Facebokは広告をただ打つだけでは飽きたらず、集めた情報を元に選挙コンサルティングのようなことも行なうようになっている。そのことと、前述のようにエンタメと選挙の広告を「区別する明確な境界線はない」ことが、どのような影響を与えるかを考えた方が良いだろう。
思い上がり
Facebookの興味深い取り組みがいくつか紹介されているが、その一つに貧しい国においてインターネットへの接続を無償にするというものがある。
但し、これはFacebookが選択したコンテンツにアクセスする場合の通信料金が無料になるといった類のものなのであるが、このサービスがインドでインターネットの中立を犯すと規制当局が見なした事件があった。これに対してFacebookの役員が「反植民地主義」だとして批判したところ、(当然の如く)大炎上して意見を撤回する羽目になった。
著者は、そもそもこのサービスが「情報へのアクセスが利用者の将来の展望とコミュニティをよくするはずだという絶対的な思いこみから生まれている」とした上で、この騒動が「富や権力を笠に着たシリコンバレー流イデオロギーの片鱗をうかがわせるものとなった。 多くの場合、そのイデオロギーが、自分たちより劣った人々のためを思っているという押しつけがましい決定や活動を生むのである」と述べている。
SNSと政治活動
また、よくメディアで取り上げられるSNSと政治活動の関わり、例えば抑圧的な体制における政治活動とSNSの関わりについての楽観的な認識にも批判を加えている。
イランのデモやエジプトでの反政府デモにおいてSNSが果たした役割について、メディアではセンセーショナルに取り上げられるが、端的にいえばそれは、そういったデモが起こった地域の状況や伝統といった複雑な要素を無視して話を簡素化し過ぎていると批判をしている。
※同様の批判は「グーグル化の見えざる代償」でも行われている
※要するに、それ(技術)がなければその結果は生じなかった、と考えるのは単純すぎるということだ
うまくいった活動は華々しく取り上げられるが、失敗した活動は取り上げられない。また、SNSが活用されていない活動は取り上げないといったような、話題性による選別によって実情と印象とが乖離してしまっていると言えるだろう。
そして、SNSを活用できるのは何も抑圧された人々だけではなく、体制側もこれを活用することが可能だし、むしろうまくそれを利用しているとも述べられている。
このように、抑圧された人々による政治活動におけるSNSの役割を過大評価することの問題点と、それにより抑圧する側のSNSの活用について盲目的になることについて警鐘を鳴らしているのだが、そもそもの話として、SNSは「熟議にはまったく向かない」し、単発的な活動が継続的な政党活動のようなものにつなげることにも「向いていない」としている。
選挙におけるFacebookについて
2016年からFacebookは有権者をターゲティングするようになり政治コンサルタントとしての役割を果たすようになったと指摘した上で、その問題点を以下のようにあげている。
そういったテクノロジーのおかげで活動家は効率的に有権者に働きかけることが可能になる
その代償として、狭い範囲への効果的なアプローチが可能になるので、多数の理解を求める必要がなくなる
すなわち、「単一論点の選挙運動と候補者を増長する」
これは活動家にとっては好ましいが、熟議を必要とする民主主義には好ましくない
※要するに、一部の過激な活動家が力を持つ要因となる
さらに、アメリカ大統領選に絡んであるFacebookによる広告を紹介している。
それは「カスタムオーディエンス」と呼ばれるもので、元々は化粧品のような販売会社向けだったのだが、それが選挙にも使われるようになったのだという。それは最小20人程度の集団をターゲットにし、すぐに消え去ってしまうものだ。
これの問題点は、対象が限定されかつ短時間で消失するために検証されたり討論されることがない点にある。選挙に関連するものであるにもかかわらず、である。
このように、Facebookは選挙においても重要な役割を果たすが、その実態は民主主義を損なう点が大きいと指摘している。
※ちなみにトランプが大統領に当選した際の選挙においては、トランプ陣営側はFacebookを存分に活用したとしており、陣営はFacebookを高く評価していたとのこと
まとめ
これまで紹介した事柄に関わる、本書で重要なキーワードは「科学技術至上主義」(テクノナルシズム)であり、科学技術で全ての説明がつくかの如き言説に対して鋭い批判を加えている。
これは、すでに述べたような、成功した政治活動におけるSNSの役割を過大に評価することはもちろん、科学技術を用いれさえすれば物事が解決できるということに対しての批判である。
Facebook(やGoogle)の"善意"に基づく行いが様々なところで裏目に出ていることを著者は述べているが、これらの原因は「科学技術至上主義」による傲慢さによるものだということになるのだろう。
残念なことに、この現象への特効薬は存在せず、すぐに解決することはないだろうとした上で、
加えて私が重要だと思う指摘は、技術と文化を切り離して捉える現代的理解について述べた部分である。
この引用文が言いたいことは、技術には文化が反映されるので切り離して考えられるべきではないということであり、その理由は、そういった認識方法によって技術が暴走することが見過ごされてきた、ということである。
本書での文脈で言えば、SNSのような技術は民主主義に悪影響を与える性質があるにも関わらず、それが人の行いの結果として評価されるのではなく、それとは切り離された技術による結果として見られているがために、看過されてきたということになるだろう。
本書は、SNSの問題に留まらず、技術に対する現代的認識にも警鐘を鳴らした興味深いものであると思うので、機会があれば是非読んで見てほしい。
最後に、本書における問題提起は興味深く、また同意できるものである。
元々インターネット上の交流は、場所ではなく話題に集まるために持続性に乏しい。その上、昨今ではフィルタリングやパーソナライゼーションによって、より興味のある話題に絞って交流するように仕向けられている。
これが意味するのは、より瞬間的には爆発的に盛り上がるが、より持続性に乏しくなってしまっているということで、交流の継続性を損なうのみならず、熟議を要とする民主主義を損なっているということである。
本書の指摘はこれを補完するものであり、SNSによる交流・政治参加の促進が、(単発的にはともかく)長期的には良い影響を与えるものではないことを示している。IT業界の「善意」が交流の促進を目指した結果としてこの傾向を推し進めているのであれば皮肉であるが、これが意味するのは、この先もIT業界に任せっきりにしても良いことはないということと、究極的にはオンライン・オフラインの交流の組み合わせが必要だということだろう。
そこら辺の話はまた別の機会にしたいと思うが、ともあれ、興味深い本なので是非ご一読あれ。