移民問題から見える、自由と必要性のバランスと、問題に向き合うことについて
※他所で書いた内容をお試し投稿。
最近よく考えるのだけど、先進諸国といわれる国において、個々人の自由意志の時代から必要性の時代に移り変わってきたのではないかと思う。
もうちょっと正確に言えば、自由意志を振りかざすあまり必要性の問題を見ないようにしていたつけが回ってきた、ということになるか。
※特に少子高齢化問題を考えるうち、そのように思うようになった。
当たり前だが、社会は誰かが子供を産んで誰かが育てないと成り立たない。
昔はそうするのが当たり前でそれを求められもしたけど、だんだんと個人の意思で選択すべきとの風潮になってきた。
つまり、必要性を求められる時代から、自由意志の時代になったということだ。
もちろん個人の意思は大事だし、結婚や出産を押し付けてうまくいく話でもない。
各々がそうやって好き勝手にやっても上手いこと社会が回るのであればそれでも構わなかったのだろうが、段々そうは問屋が下さなくなってきた。特に日本は。
少子高齢化になって何が困るかという話は割愛するが、特にそれが極端になるような場合、どういう思想・信条を持つ人であっても老いれば困ることは必然だ。
よく、この少子高齢化問題で話題に上がるのが移民の受け入れだが、リンク先にもあるように今欧米で問題になっている。
問題の内容には深入りしないが、働き手が減るのであれば、増やす方法として移民を受けれることが検討されるのは必然だろうが、しかしここには、そもそも論としての大きな問題があると考えている。
少子高齢化の問題は、戦争が起こって極端に若い世代がいなくなったということでもない限り、基本的には国内問題だ。
つまり、移民を受け入れて働いてもらうというのは、国内問題を他所の国の資源で解決するということに他ならない。
何を当たり前のことを?と思うかもしれないが、それは奴隷に首に縄つけて引っ張ってきていないだけで、昔の植民地時代と同じ考え方ではないか?
受け入れ側が正当な対価を払って働いてもらうのは一見正しいことではあるが、それは逆から見れば金に物言わせて収奪しているのと変わらないのかもしれない。
その意味で本質的には先進諸国の考え方は変わっていないのかもしれない。
いずれにせよ、国内問題の埋め合わせを他所の国の資産で行うことの問題点は、そもそもの問題に対して向き合わなくなってしまうことだ。
海外の資産を使って安上がりに解決するのであれば、わざわざ問題を解決するコストをかける必要はない。多分そちらのほうがコストがかかるし、カネに物を言わせて安上がりに済ませばいいだけなのだから。
昨今、特に先進諸国で個人の自由・多様性等々が叫ばれているが、その裏で解決すべき問題が放置されてきたのではないだろうか?
そういった自由を実現するために、社会を維持するという必要性の問題に目を背け、安上がりな方法で補填して誤魔化してきたのではないか?
つまり、先進諸国がそういった自分たちにとって都合の良い思想を実現するために、本来自分達で解決しなければならない問題を、発展途上国の資産で穴埋めしていたのではないか?ということだ。
現状の移民をめぐる諸問題とは、そういった先進国のための自由を謳歌する仕組みが、破綻をきたしているということだと私は捉えている。
少し考えればわかることだが、個々人が勝手気ままに活動した結果として社会が上手く回るとは限らない。
なぜなら、そのような自由と必要性は別に連動しているわけではないからだ。
どちらかだけだと破綻するか息苦しくなってしまうのでそのバランスが重要なのだが、ここ数十年たまたまうまくいっていたことをいいことに、長い間そのバランスをとることを放棄していて、そのしっぺ返しを喰らいかけているのが現状ということになるだろう。
日本の場合だと少子高齢化も問題であるが、今後世界の人口は増えること等を考えれば食料自給の問題もいい加減どうにかしなければならない。
急激な円安で物の値段が上がって右往左往したことは記憶に新しいが、そうなってしまうのは日本が資源の多くを輸入に頼っているからだ。
全部は無理だが、ある程度は自活できなければ海外の事情が為替を通じて日本に大きな影響を与えてしまう。
これも以前からわかっていたことだが、ずっと放置されてきた。
当たり前のことだが、自分達で解決すべき問題は自分達で解決した方が良いということだ。
私の好きなハンナ・アーレントという哲学者がこの現状をうまく捉えたようなことを言っている。
要約すると、”動物的必要性の領域である私的領域を征服してこそ、個人として自立した人間として公的な領域で自由に振る舞える”と。
つまり、食糧を生産し生命を維持し、子供を作って家族(社会)を維持して初めて、自由な人間たりうるということだ。
取り上げている問題と照らし合わせると、先進諸国は私的領域の問題を放置していたがために、公的な領域が崩れそうになっているということになるだろう。
※蛇足だが、この哲学者の私的領域・公的領域に認識は(私に言わせれば)大きく誤解されていて、まるで私的領域を軽んじているかのように言われることがある。どこを読めばそうなるのかが私には全くわからないが。
必要性の問題に向き合わずに自由を謳歌していた時代は終わり、これからは強烈に必要性を突きつけられる時代になるだろう。
世の中は振り子だと常々思っていたが、左に大きく振れていたのが右に戻ってきているという感じだろうか。大きく触れていた分、戻りも大きくなるかもしれない。
率直に言って、昨今の多様性ブームは本当に必要なことせず、上部だけ取り繕った薄っぺらくて中身がないものだと思っている。
多様性とは各々のせめぎ合いのはずで、その中で”できること”と”できないこと”を突き合わせないといけなかったのだが、なぜか単純な迎合や同質化の方に進んでしまっているのが現状だ。
あれもこれもと大風呂敷を広げて迎合した結果、要らぬ敵を作り挙句に中途半端な状態になってしまっているように思うが、これも必要性の観点から様々な課題を突きつけられるだろう。
※早めにちゃんとやっとけばよかったのに
繰り返しになるが、自由と必要性はバランスである。今一度そのことを念頭に現状を捉え直す必要がある。
そして、自分たち自身で解決すべきこと、した方が良いことがあるだろう。それに真正面から向き合う必要があるし、その際には、我慢しなければならないことや諦めなければならないことも出てくるだろう。
昨今の社会問題の解決についての話を聞くと、大抵、新技術がどうの代替手段はどうのと判を付いたように言うが、不思議なくらい我慢するとか諦めるという単語は出てこない。
確かに現状を変えるのは避けたいという気持ちはわかるが、大抵代替のものや新規のものにはそれはそれで課題がある。
技術屋の界隈には枯れた技術という言葉がある。
使い古された技術を指す言葉だが、メリット・デメリットがはっきりわかっているので、あえてその技術を使うことがある。
重要なのは問題を解決することなのだから、そのために必要であれば新しい何かでなくても良いし、なんなら何かを諦めるのも選択肢に入れなければならない。
そして、何よりも現状の問題をしっかり認識することがスタート地点だ。
残念なところに日本は少子高齢化社会対策の最前線にあって、誰かに習うことは難しい。
なので、これは誰かに頼ることのできない、自分達自身で解決しなければならない問題であるし、この問題を皮切りに、様々な問題と正面から向き合うことができるようになるべきだと考えている。