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生成AIが一瞬で素晴らしい絵を作れる時代になったからこそ"アート作品"は「物語」が重要になってくる

今回はAI全体ではなく「生成AI」で作ったアート作品に限定した記事です。

Xでも生成AIのことが常にトレンドに入ってますね。
生成AIを受け入れない人もいるということがしっかり可視化されています。

すごくナンセンスだけど、世界を生成AI推進派と反生成AI派に分けるとしたらなら、きっとわたしは生成AI推進派に入るんだろうと思います。
前にもこんな記事を書きました。

わたしはこれから生成AIを規制したところで廃れることはないと思っているし、生成AIを受容した世界と規制したあとの世界では規制するほうがデメリットが多すぎると考えています。

ただ、だからといってなんもかんも生成AIに任せればいいとか、そんなことは微塵も思ってません。「誰かを貶めるためではなく、誰かを助けるためにAIを使う」これは絶対です。
AIはただのツールであり、選択肢のひとつです。

思考実験 「子どもの絵」

ある日、リビングの壁に飾られているニ枚の絵を見つめながら、わたしは深い考えにふけます。
それは、子どもが心を込めて描いた手書きの絵であり、もう一枚は生成AIが一瞬で生成した画像です。
どちらも美しいのですが、果たして親にとって同じ価値があるでしょうか?

子どもが描いた絵には、その時の気持ちや成長の足跡が込められています。
たとえば、太陽を描く際に使った色が前回よりも鮮やかになっていたり、家族を描く際に新しくペットを加えたりすることで、その子の世界観や家族への愛情が表れます。
最初は下手でも、描くごとに上手になったりするのです。その成長をみるのも嬉しかったりします。

一方、生成AIを使って作った絵もそれはきっと美しく、子どもがプロンプトを考えて作ったんだと思うと嬉しいです。全然嫌な感情はありません。
表現を考えて、ツールを駆使して頑張ったという、その過程も評価します。

でも、わたしは子どもが手書きで作った絵と、生成AIで一瞬で作った絵が、親にとって同じ価値になるとは到底思えないのです。
両方とも想いは込められているから同じように額に飾るけど、それに同じ価値はきっと見出せないのでは?とn=1ではあるけど子どもを持つ親であるわたしは考えます。

ヘラルボニーさんのビジネススキームを見て、作品は「物語」が大事とわかる

話がちょっと変わりますが、わたしは福祉実験カンパニーのヘラルボニーさんの活動が好きです。

ヘラルボニーは、「異彩を、放て。」をミッションに掲げる福祉実験カンパニーです。
国内外の主に知的障害のある作家の描く2,000点以上のアートデータのライセンスを管理し、さまざまなビジネスへ展開しています。支援ではなく対等なビジネスパートナーとして、作家の意思を尊重しながらプロジェクトを進行し、正当なロイヤリティを支払う仕組みを構築しています。

youtubeの説明より

いつか一緒にビジネスを作りたいなと考えている会社さんのひとつです。

障がいを持つ方がその手で作り上げた作品を、ちゃんとひとりのアーティストの作品としてのビジネス展開し、その人の生活に還元したり、このヘラルボニーの活動を続けていくための種としています。

福祉を本気でするということは、きれいごとじゃない。
ただ寄付を集めるだけだと誰かが疲れてしまったり行き詰まってしまったりするところを、支援ではなく対等なパートナーとしてビジネス展開してお金を集め作者に還元しながら活動を続けるという、まさに持続可能な活動を成功させています。
だれもが喜ぶところにまで福祉を昇華させた素晴らしい事例です。

ヘラルボニーさんのアートを見ていると、作品って、もちろん出来上がりが素晴らしいっていうのもあるけど、そこで語られる「誰が作ったのか」「どうやって作ったのか」「どんな思いがあるのか」もめちゃくちゃ大事だとわかります。

わたしはヘラルボニーさんのアーティストのデザインが好きで小物を買ったりなんてよくしてますが、そういった誰かの思いが込められている作品であるところも好きです。

生成AIを使ってアート作品を作ったとて、無条件に叩くなんてしちゃいけないと思う

仮定の話ですが、筆を持てないようなもっと重い障がいを持つ人がAIを使ってアートを作ったとして、それを叩くことなんて絶対にあってはならないですよね。

でも、それが健常者なら叩いていいのでしょうか?
絵が描けない健常の人が生成AIで素晴らしい絵を作ったとして、それがAIを活用しているからとダメだと叩くのっていいのでしょうか?

その生成AIがグレーだったりブラックなものだったらダメなのは当たり前です。著作権違反をしているものはAIに限らずダメです。パクリもダメ。

そういうことをしない人に対し、純粋に生成AIを楽しんで表現をしている人は障がいの有無を問わず、わたしはもっと楽しんで生成AIを使って欲しいと思うし、生成AIを使った作品だとしても、ひとりのちゃんとしたアーティストだと思うし、クリエーターだとも思います。

生成AIで作った作品も素晴らしいし、手書きも素晴らしい。どちらにせよアート作品の価値を上げるには「物語」が大事になってくる。

生成AIや手書きであることは関係なく、アート作品が素晴らしくて、その作品に込められた想いや理念に共感したら、わたしはきっと自分の手が届く範囲の値段であれば買うと思います。

ただ、手書きは物語にプラスして、想いや手触り感が生成AIの作ったものよりアウトプットに乗りやすくて、その分価値が上がると考えています。
例で言うと、「コンビニのサラダ」より「シェフのこだわりサラダ」のほうが美味しそうに感じたり、「ふつうの建売住宅」より「デザイナー住宅」のほうが理念を感じられて素敵に思えるのと同じです。

なので現状では手書きの方が軍牌が上がると思います。
イメージとしてはこんな感じ。

アウトプットが同じなら、物語が全然手書きのほうが強い

これに対し、アウトプットの出目が手書きのほうが低かったとて、アート作品としてはやはり手書きのほうが強いと思います。

どんなにアウトプットが美しかったとて、ことアート作品に限ると基本的にはこうだと思う

アウトプットが生成AIの方が美しくても手書きの物語の強さには勝てない。
だけど、生成AIで作られた裏にある物語が強ければそれを超すこともあると思います。たとえば、先ほど例に出した障がいがある人が頑張って作った作品といったような場合です。

こういうこともありうる

やはり、アート作品においては結局はそこに込めれた「物語の強さ」なのではないのかなと思ってます。

わたしは仕事でアートディレクションをしているけれど現場で生成AIはまだ活用されていない

別に使いたくないと言うわけではないのです。
生成AIで絵やデザインを完結するのは現状まだ無理と思っているからです。もうちょっと技術が進んだり、クリーンさが証明されたら使うかもですが、いろんな理由でいまはまだ現場で使うにはちょっと厳しいなと思うからです。

生成AIが活躍する場は、デザインやアートディレクションに具体的に入る前の”企画段階”です。
ブレストや企画・提案段階での生成AIの活躍は目覚ましく、そこが主戦場です。

AI全体の話でいうとchatGPTとかも含めすごく使っています。手段やツールのひとつとして生成AIはとても便利で素晴らしい仲間です。
とにかく早く大量に一定のアプトプットを作れるというのは企画段階にピッタリです。

生成AIを日々使っていると、細部を丁寧に作り込むことはかなり難しいことに気づきます。結局は人の手での修正がほとんどになっていくのが常です。
思い通りに生成するのには結局職人レベルでの調整が必要になってくるのです。
結局1から作った方が早く正確であったりすれば、そうした方がいいのです。
なので仕事ではまだ生成AIは使っていなく、手元でブレストやアイデア出しで活用する程度ですが、いまはそれで十分と思っています。

企画書段階で大活躍する生成AI

生成AIはやはりツールであり、ツールのひとつとして積極的に活用していくべきと思う

最終的に、アートは人間の感情、経験、そして物語を通じて価値を見出します。
生成AIによって作り出された作品であっても、それが人々の心に響き、感動や新たな視点を提供するならば、それは間違いなく価値あるアート作品と言えるでしょう。
手書きであれば尚更です。もっともっと直接的に伝えることができます。

生成AIは手段の一つに過ぎず、最終的なアート作品の価値は、それがどのように作られたかではなく、その作品が伝える物語や、作品に込められた情熱、アイデアの深さによって決まります。

わたしたちは生成AIを利用したりしなかったりして、とにかく日々新たな創造の可能性を探求し、アートの未来を共に形作っていく必要があるんじゃないかなと考えています。
そのためにこれからもわたしは日々アートも生成AIも研究し続けていきたいなと思っています。


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