自己受容と美しくなりたい気持ちの狭間で

こんにちは、Webライター・ブロガーのSeinaです(@st_0905

美容整形、自己受容、葛藤をテーマにコラムを書きました。といっても2017年3月に書いた、ブログの過去記事を反映させたものです。現在ブログを移転作業中なのですが、あまり読まれていない記事は思い切って捨てています。

でも、中には思い入れの深い記事もあります。そのような記事は、こちらのnoteに写すことにしました。もちろんnoteでは新たにコラムも書いていく予定です。

この記事を書いた頃は、まだ顔の骨格を変える&輪郭の美容整形をしておらず(ルフォー・SSRO・オトガイ形成・頬骨弓骨切り)、歯並びや口元の突出感を歯科矯正で治せるのではないかと考えていました。

なので、

「歯科矯正をして美しくなりたい!!!(結構な大金)」

と、衝動的に決断しようとしていました。

でも、同棲していた彼に止められ、理性的に考えると「大金を歯科矯正にかけるのはムダなことではないか?」と、考えたり。結局、1年後に約350万円かけて美容整形しちゃうんですけどね。笑

そのほか、美しい生き方をしている祖母や、容姿に悩むきっかけとなった過去のエピソード。「女の価値は容姿だけなのか?」の問題についても書いています。

<目次>
1.美しくなるために100万円以上の借金をしようとしていた話
2.わたしには美しさがすべて
3.美しさは美醜だけではないと祖母が教えてくれた
4.ニセモノの自己受容をしていた自己中心的な自分
5.容姿の優劣はときに残酷で
6.自己受容と美しくなりたい気持ち
7.容姿の囚われから卒業するには、女の価値は「容姿」だけではないことを知ること

美しくなるために100万円以上の借金をしようとしていた話

画像1

千葉県内で有名な歯科矯正専門の歯医者にいってきた。歯科矯正は経験済みだが、もっと綺麗な歯並びを目指したかった。

他人からみれば、ひどい状態ではないらしい。でも、自分からみればとても汚くみえる。治したくてたまらなかった。

カウンセリングの結果は、歯科矯正でなおすことができるとのことだった。だが、もちろん費用はかかる。「110万くらい」が、見積もりの結果だった。

ものすごい大金に見えるが、美容整形と比べると安いものだ。

わたしの今の状態を美容整形でなおすと、セットバックというアゴを後ろに引っ込める手術と、歯科矯正を併用しなければならない。

費用は手術代と歯科矯正代をあわせて、400万ほど。両方とも保険適用にならないので、莫大な金額になる。

400万の大金など、一生をかけても払える金額ではないだろう。

そこで、思いついたのが歯科矯正。年単位で時間はかかるが、美容整形よりも安く治すことができる。借金を考えていたというのは、歯科矯正のローンのことだ。

48ヶ月払い、月あたり25,000円。手数料・利息はかからない。確実に悩みを解決できるなら、この方法が最善だと思っていた。

今のわたしの経済状況からみると、ギリギリで払えるところだからだ。

とにかく、歯並びをなおしたくてしかたなかったので、カウンセリングに行く前から、ローンをどうするかと考えていた。

自分の容姿のことだから、同棲中のカレには相談せずにはじめようかと、こっそり考えていたりもしたが、はなしの流れでカレに相談をしてみたら案の定ストップがかかった。

「100万円の大金の使い道をよく考えろ」

たしかに、その通り。

もし100万円があれば、どのようにお金を使うだろう? 旅行に行く? 美味しいものを食べる? はたまた、親孝行のために自宅をリフォームする?

わたしはまっさきに、美容整形にお金を使うだろう。

しかし、カレは生産性をあげることにお金を使うと言っていた。仕事用に使うパソコンを予備に1台買う。仕事を快適にできるように新しい椅子を買う。

自分の容姿のことを気にするあまり、今すぐどうにかしたいと思うあまり、将来のことなどこれっぽっちも考えなかった。生産性などどうでもよかった。

ただ、美しくなりたかった。

わたしには美しさがすべて

画像2


わたしは、世の中容姿がすべてだと思っている。「美しさがすべて」というモットーがあるくらいだ。

美容整形をくり返して、まあまあな顔を手に入れた。だが、もとの顔はだれが見ても「ブサイク」と口を揃えるくらいひどい容姿で生まれてきた。

「他人からどう見られているか気になる」

「鏡で顔をみるたびに憂鬱になる」

「外に出る自信がない」

ブサイクなころはそんなことばかり考え、悩んでいた。今でも自分の容姿に自信は持てないが、美容整形をしたことで大分マシになった気がする。

顔の変化はもちろん、美容整形をしたことで生活が変わった。普通に外に出れるようにもなり、外で働けるようにもなった。男性とは無縁だったのに恋人もできた。

ブサイクなことのわたしと比べると、美容整形のおかげで人生が前向きになったことは確かだ。

美容整形を決断をしたことは、まったく後悔していない。自分の経験上、美しくなるために美容整形は1つの方法だと考えるのは、この先変わることはないだろう。

しかし、最近になって、美しさに対しての価値観がすこしだけ変わってきた。美容整形をすることだけ、美醜だけが、美しさではないと何となく理解できるようになった。

そう思わせてくれたのは、わたしの祖母だ。

祖母をみていると、美醜だけではない美しさを感じる。自分のモットーなど、どうでもよくなるような、不思議な気持ちにさせられる。

美しさは美醜だけではないと祖母が教えてくれた

画像3


祖母は、88歳になった。

頭は真っ白になり、年を重ねた証のように、肌にはシワがたくさんできている。一見すると年老いた女性にしかみえないが、わたしは祖母の生き方に美しさを感じた。

祖母は熱心なクリスチャンだ。毎週日曜日に、かかさず教会に行っている。もう何十年と、毎週通いつづけている。

そして、食事の前にはどんなときでもお祈りをして、周囲の人の健康を祈る。毎日笑顔で、会う度に嬉しそうにむかし話をして、誰に対しても優しい。

わたしの目にはそんな祖母のまっすぐな生き方が、美しく映っている。美醜だけが美しさではない。祖母の美しさを理解できている。

自分の容姿の欠点をうけとめ、違うところで美しさを追求していこうと思えた。でも、ほんとうの意味で、わたしはまだ自己受容できていなかった。

ニセモノの自己受容をしていた自己中心的な自分

画像4


美しい生き方をしている祖母と、容姿ばかり気にするわたし。比べると、自分がとても薄っぺらくみえる。

容姿に囚われている時のわたしは、そこにだれも介入していない。祖母のように他人の健康を願うでもなく、だれに感謝するでもなく。

どうすればキレイになれるのか、どの手術方法がいいのか、自分がどうしたら最高に美しくなれるのかしか考えていない。

自分にしか注目していない、まさに自己中心的な有様。

この間カレとはなしていたとき、改めて「美しさは美醜だけではない」という本当の意味を、理解しきれていないと気がついた。

100万円以上のローンを組むリスクや、経済状況のことまでを考えられなかったからだ。容姿の欠点がとてつもなく汚いものにみえて、今すぐどうにかしたい。

それだけの思いで、実際にローンを組もうとしていた。どうにかしたい気持ちのためだけに周りを見ることもなく、人生を棒に振ろうとしていたのだ。

冷静になってみると、自分の安易な行動におどろく。

それでも「借金をしてでも、自分の容姿を変えたい」というのが、わたしの芯にある。破滅してもいいから、すべての資産を美容整形につぎ込みたいとさえ思う。

どうなってもいいから、容姿を変えたい。これは自己受容しきれていない証なのだろう。

容姿の優劣はときに残酷で

画像5

なぜここまで容姿にこだわるようになったのか。その理由を探すためには、はるか昔にさかのぼることになる。

まわりと容姿の違いを感じはじめたのは、4〜5歳のころ。

「わたしはなんで、周りの子と容姿が違うのだろう?」と、小さい胸の中で疑問に思っていた。

「〇〇ちゃんの横顔はキレイなのに、わたしは違う」

幼いながらに、周りとの容姿の違いを気にしていた。しかし、幼いわたしは、どうやって周囲の大人に説明したらいいのか分からず、胸の奥底にしまったままにした。

そして、小学生になった。胸の奥底にしまった容姿への疑問は、小学校高学年〜中学生時代にふつふつと湧いて出てきた。小学校高学年くらいにもなると、とくに女の子は色気づく。

メイクをしだしたり、ファッションに気をかけたり。異性からどう見られているかを意識しはじめる。だが、その他にも変わることがある。

「容姿の優劣をつけるようになること」だ。

子供のころは、容姿など一切気にしない。しかし、色気づくころになると1人1人の容姿の違いを理解できるようになってくるものだ。

「〇〇ちゃんはきれい」

「〇〇ちゃんはブサイク」

クラスで1番キレイなのは誰なのか、1番ブサイクなのは誰なのか。口にすることはなくても、容姿への優劣は自然とつけるものだ。

さらに、わたしは容姿の優劣の中で、自分がどのあたりにいるのかも理解していた。

まるで、容姿の階級をつけたヒエラルキーのように、キレイな子は「上」。まあまあな子は「中」と、ランク付けする。そして、わたしは容姿のヒエラルキーの中の「下」に入れられていた。

「おまえは下の下だ」

と、ハッキリと言われなくても、肌で感じるのだ。

小学生時代に6回の転校を経験したせいか、周囲が自分に対してどのように思っているのかを空気でつかむ能力を持っていたからだ。

1ヶ月しか通わなかった小学校もあり、あちこち点々として、落ち着かない小学生時代。授業についていけない悩みもあったが、後からどうにでもなった。ただ問題なのは「転校生」という立場だ。

転校生は、1人ぼっち。すでに仲良しグループができている場に、ポツンと入らなければならない。転校生でありながら、しかもわたしはブサイク。

転校生+ブサイク。いじめのターゲットになりやすい条件ぞろい。身体的ないじめをされた経験はないが、精神的ないじめは転校するたびに続いた。

人前に出る機会があるとその度にコソコソ笑われたりするのは、よくあることだった。

自分がブサイクだから笑われるのだ。

自己受容と美しくなりたい気持ち

画像6

美容整形をした今でも、容姿を気にする気持ちに終わりはない。目が気に入らない、鼻を高くしたい、アゴが大きいから小さくしたい。鏡を見るたびに顔の欠点ばかり気になる。

これからお金をかけて美容整形をすれば、今より美しくなることはできるだろう。しかし、美容整形にも限界がある。

例えば、純和風な顔から、まったく別人の西洋人の顔になりたいとしよう。ある程度近づけることはできるかもしれないが、美容整形は魔法ではない。

自分という存在を、まったくの別人にするのは難しい。気になるところをすべて手術するとなれば、莫大な金額もかかる。

だからこそ、美容整形で美しくなりたい気持ちに、自分自身で終止符を打たなければならない。そのためには、本当の自己受容を理解しなければならないだろう。

本当の自己受容とは何か。

例えば、人間が0〜100点で点数をつけられるとしよう。本当は100点でありたいが、自分には60点しかない。

どうあがいても、点数を上げられない現実がある。それなら、60点という自分の点数を受け入れよう。

「60点の自分わたしでもいいんだ」と。これが、本当の自己受容だ。

自己受容の例を、自分の容姿に当てはめてみよう。わたしの容姿は、完璧とはほど遠い。

美容整形をしてもまあまあな顔だ。どうあがいても、完璧になれる日はこない。

それなら「今のわたしでもいいんだ」とまあまあな顔を受け止めていくしかないのだろう。

自己受容とはいい意味で、諦めをつけることなのかもしれない。

容姿の囚われから卒業するには、女の価値は「容姿」だけではないことを知ること

画像7


そういえばこの間、カレにこんなことを言った。

「年をとったら容姿は崩れていくだけだから、今からキレイになっていないといけないんだ」

これは、100万円以上のローンを組んでまで歯科矯正をやりたかったときのわたしの言い訳だ。

しかし、カレはこう応えた。

「たとえ年を取ったとしても、seinaの価値は変わらないよ」

その答えに、わたしは「美しさに価値は関係ない」のだと、そのとき激怒してしまった。

だが、改めて考えてみると、わたしという存在の価値をみてくれるということは、きっと幸せなことなのだろう。

わたしに完璧な美しさはないが、キレイだと言ってくれるカレがいる。寝起きでひどい有様なときも、化粧をせずにダラしない格好でいるときも、キレイだよと言ってくれる。

老いて容姿の美しさがなくなったとしても、カレの態度は変わらないのだろうと想像できる。それは外見よりも、中身を重視してくれている表れに違いない。

そうだとわかっていても、わたしの心には何かがつっかえる。

「完璧に美しくなれずに一生を終えるだなんて、それが女の幸せといえるのだろうか?」

「目の前に美しくなる方法があるのに、手を出さないなんて間違いではないのだろうか?」

容姿を受け入れたいと思う気持ちと美しくなりたい気持ちが、ぶつかりあい葛藤する。

これからの人生、課題は山積みだろう。この葛藤胸にしたまま、生きていかなければならないのだから。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。あなたの何気ないスキがモチベーションに繋がります。売上金・サポートの一部は動物愛護団体へ寄付しています