世界と刺し違える覚悟で
恐ろしいことに年末年始のことを書いてる下書きもあるけど最近の日記。
映画「マーティン・エデン」を見た。船乗りで労働階級のマーティンが良家のお嬢様と出会って学び、作家になり、、というストーリー。
前半の1つの大きなテーマとして、自分の目で見て耳で聞いて触れた世界を書きたいという話があったのだけど、世界を捉えたいとか知りたいという欲求ってどれぐらい根源的なものなんだろうとふと思った。
自分を知りたいというのはみんな持ってるものと勝手に思ってるんだけど、対象が自分の外側となるとどうなんだろう。
数年前のTV番組で「何かを描こうとした時点で私たちは世界の真実から敗北していて、それでも世界と刺し違える覚悟で書く」みたいなことを作家の藤沢周が話していたのを思い出した。
違国日記の槙生も似たようなことを言っていたな。
彼らみたいに刺し違える覚悟とまでは言えないけど、いつのまにか生活の中で1番熱心に取り組むことにはなってるなぁ
話を戻すと、私の場合その「知りたい」は当然のような顔をして3大欲求の隣にいて、性的指向とかと一緒で選べるものではなかった気がする。
(経験も間違いなく影響しているので後天的と言えるが、恣意的に選んだわけではない。)
歩くのが好きなのも牛乳が嫌いなのも誰かを好意的に思うことも選んだわけじゃないのに自分にとっては当たり前で、この当たり前が人の数だけあるって思うとゾッとするしわくわくする。
また話が逸れたけど、だから「知りたい」がそのポジションに居続ける限りは書き続けるし読み続けるし、なんで?と思い続けるんだろうな。時々面倒になるけど。
そういう自分の器じゃないけど、なんだろう本懐?本分?みたいなことが最近わかり始めたというか、ちゃんと耳を傾けられるようになってきていて嬉しい。
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