あるイタリア語研究者の高潔でまっとうな生き方。
そのひとは編集部内ではとても有名だった。
高名なイタリア語の研究者で、数々のオペラの対訳シリーズを出している。そのどれもが非常に評価が高く、売れ行きもいい。会社の功労者のひとりといっても過言ではない。
ただ、この80歳になろうとする女性はとても気位が高い。
電話がかかってきて、その名前を聞き返そうものなら「あなた、私を知らないの? よそ者ね」と怒られる。担当が電話をかけると少なくとも1時間は話が続く。その大部分は小言というか愚痴というか……まあそんな感じだ。
僕は入社早々、その人の新たな担当を言い渡された。でも近年目がお悪くて、そのせいで入院されているらしく、何度か連絡をしたがいずれも留守電で、返事はなかった。手紙を出したこともある。でもやはり「なしのつぶて」だった。
状況が一変したのは二か月ほど前だ。
以前出版した本が重版することになり、制作担当者が手紙を出したところ、制作部に電話がかかってきた。
たまたま電話に出た担当者は社内でも有数の温厚な人だった。それが幸いした。2時間近く彼は静かに彼女の話を聞き、彼女は「その人なら」と連絡をくれるようになった。
そして明らかになったこと。昔の本に間違いがある。そのことを重版になるまで知らなかった。問題の個所は担当編集者が勝手にやった部分で、著者である自分には見せてもいなかった。このことで自分の名誉はひどく傷つけられた。よってこれまでお宅から出ていた本の権利はすべて引き上げたい。
要するに、めちゃめちゃ怒っていたのだ。
上の人も出てきて対策が練られた。入念な調整のうえ、出版部長と温厚な制作担当者、そして本来の担当である僕が彼女のご自宅に謝罪に行くことになった。
11月初め、僕は久しぶりにネクタイを締めて都内の彼女のご自宅にうかがった。
三階建てのモダンな建物だった。どんな怖い人が出てくるのかとびくびくしたが、彼女は満面の笑みをたたえて僕らを迎えてくれた。
お茶と和菓子をいただきながら、それから2時間半、僕らは彼女の話を襟を正して拝聴した。
主な話題は「これまでにお宅の会社が私に行った数々の失礼なふるまい」だったのだが、それはいちいち「そうだよなあ」と納得のいくものだった。
たとえば、あるフリーの担当者は「こんな安いギャラでこんなにやらされて。まるでボランティアだ」とのたまわったという。彼女は彼と縁を切ると新たに生命保険に入り、受取人を彼にした。
「だってそうでもしないと、癪に障るじゃありませんか」
憤然と言い切った。
彼女は正義の人なのだ。だから自分にも厳しいし、人にも同じ尺度を求める。
そしてその姿勢は、当然のことながら学問に対して最も誠実に作用する。だから誤訳は許さない。その誤訳を許容する出版社もしかりだ。
しばらくして、彼女は「さて、どうしましょう」と言った。僕は「仕切り直し、させてください」と頭を下げた。彼女は何も言わなかった。でも帰り際、僕らにはそれぞれ豪勢なお土産が渡された。
翌日は僕ひとりでうかがって、1時間半ほど話し相手になった。腰を上げると、今度はイタリア語の発音の本を渡された。「だってあなた、トスティの歌を歌ったんでしょ?」。ど素人であっても歌う以上は勉強するべきだ。それが彼女の信念なのである。
いまのところ、僕は彼女のお眼鏡にかなったようだ。大きなミスをしなければ、来年には新しい翻訳本が完成することだろう。
その前に、僕は彼女の半生をつづった本の企画を提案してみようと思っている。こんなに筋の通った、思わず襟を正したくなる人生の物語はないのではないだろうか。
もちろん、失礼のないようにお付き合いするのは、ちょっと怖い気もするけれど。