キース・ジャレットとマグノリアの不思議な関係。
先日、デザイナーさんのご自宅に打ち合わせにうかがった。
新しい本の装丁をお願いしていた。お会いしたことがなかったので、僕のほうから出向くことにした。これから長い付き合いになるかもしれない。お互いの顔を知るというのは想像以上に大事なことだと僕は思っている。
世田谷区の立派なマンション。自宅兼用だというその仕事場のリビングで彼が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、本のイメージやカバー案など有意義な話をすることができた。
一区切りつくと、僕は窓際に置かれたオーディオ機器を眺めた。
「すごいステレオセットですね。いい音がするんだろうなあ」
すると彼は「聴いてみます?」と言って、つい先ほどまで聴いていたであろうCDをかけてくれた。
一瞬の間ののち流れてきたのは、夢の中から立ち上がってくるようなピアノのフレーズだった。
「こ、これ、誰ですか?」
それはキース・ジャレットだった。ゲイリー・ピーコック、ジャック・ディジョネットとのピアノ・トリオの名盤「スタンダーズVol.2」の一曲目、「So Tender」。
そのつややかでメロウな音の連なりに僕はいきなり持って行かれてしまった。
僕の興奮を見てデザイナーさんはちょっと頬を緩め、「こんなのもあるんですよ」とキースの最新アルバムを出してきた。
「ブダペスト・コンサート」。2016年に録音された、おそらく彼の最後のアルバム。
「2枚組なんですけど、最初のほうは現代音楽みたいで……すごいですよ」
さすがにそれを聴く時間はない。僕は礼を言って辞した。そしてすぐにアマゾンで取り寄せた。
キースは昨年、重大な発表をした。2018年に二度の脳卒中を起こし、左手に麻痺が残って現在もリハビリ中であることを明かしたのだ。
だからこのアルバムは彼の遺書のようなものだ。12曲ある比較的短いインプロビゼーション。確かに最初の4曲はアルバン・ベルクもしかりというような難曲で、でもそのあとでぐっと心に迫るようなバラードも出てくる。聴衆は徐々に興奮し、最後のスタンダードのアンコール2曲が終わるとこれほどはないという大歓声で彼の演奏を称える。
自分の内面に向き合い、その自由な発芽を瞬時にピアノの鍵盤に置き換えるキース。僕にとっては学生時代に聴いた「ケルン・コンサート」に匹敵する名演だった。いや、この間彼が闘ってきた年月を考えると、彼が到達したこの境地はほぼ奇跡に近い。そう考えるとジワリと胸が熱くなった。
こんなにエモーショナルなピアノは、やっぱりジャズでなければ聴けないような気がする。クラシックよ、気合を入れ直せ、である。
街は桜の開花で一気に春への階段を上がっている。
桜はもちろん素敵だ。でもその一方でかぐわしい香りと白い大きな花を咲かせるマグノリアの魅力も捨てがたい。
実はマグノリアはモクレン科の総称で、だからモクレンもハクモクレンもこぶしもタイサンボクもみんなマグノリアと呼ばれる。
キースの情熱的でつややかなピアノを聴いていると、僕はなぜかマグノリアの白い花を思い出した。
青い空に向かって大きな白い花を広げるマグノリア。その清楚な力に魅せられ、自分の些細な未来を捧げたいと願う、早春の日々。
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