いま、イタリア語研究者の胸に迫ること。
以前紹介した、高潔なイタリア語研究者のお宅に毎週のようにお邪魔している。
仕事の打ち合わせ自体は1時間ほどで終わるのだが、あとの3時間はひたすら彼女の様々な話に耳を傾けることになる。
いま、彼女の心はウクライナの人々とともにある。
テレビでその惨劇を知るたびに、幼い頃に体験した、あるいはその後見聞きした日本でのことがよみがえってくるという。
彼女の家は昔、商いをやっていた。
家には住み込みの職人さんが何人もいた。そのうちのひとりに、片目を失明している方がいた。
なぜそうなったのか。
「ある日、空襲警報が鳴ってその方はマンホールの下に逃れたの。上から何人もの人が入ってきて、押しつぶされそうになった。そうしたら、いちばん上の人に火が燃えついて、その人が焼けて流れた脂肪が目に入ったんだそうです。そんなことが、あの当時、それこそ無数にあったんですよ」
日本の戦後の混乱期を研究しているイタリア人に話をしたこともあるという。「浮浪児」と呼ばれる子どもたちが、夜露をしのぐために駅の構内で寝泊まりする。そんなことですらイタリアには伝わっていないらしい。
「わたくし、今日みたいにお客様がいらしたときは暖房を入れますけれど、普段は暖房も冷房も一切入れないんです。灼熱の防空壕の中で息をひそめて身を寄せ合っていた人たちのことを思うと、どうにも申し訳なくて・・・」
ポーランドでは、ウクライナから避難してきた人々に対して、仕事のあっせんはもちろん、公的医療制度や公的教育を受ける権利を与えている。200万人を超える避難民にそのような特権を与えるとはまず日本では考えられないだろう。
僕はこの事実を彼女から教えてもらった。
「すごいことですよね。私たちはポーランドにも支援しなくちゃいけません」
ロシアの圧政に苦しんできたショパンの国は、いまもなお友愛精神を忘れていないのだ。
戦争の話だけではなく、来日したイタリア人演奏家や歌手とのエピソードなど、興味深い話は枚挙にいとまがない。
本当はそれを口述筆記でまとめたいと思っているのだが、彼女は頑として首を縦に振らない。
いまは『ドン・ジョヴァンニ』の台本翻訳に没頭したい。彼女はそれを、ほとんど遺作のように考えているのだ。
でも僕は、彼女の使命はまだまだ終わらないんじゃないかと思っている。
「言葉を、そのままに、生き生きと伝えたいんです」
恥じらうようにそう言って、彼女は窓の外に視線を向けた。