30年前に山川菊栄氏が考えていたこと_20240822
私の癖として、精神的に遠い国で起きた出来事には、好意的・同情的に解釈ができるけど、自身の置かれた環境を紐解くことは意識に上がってこない。それはなんだか筋が通っていない。
そこで、日本で従属的な性別としての女性が、どのようにより良い在り方を目指してきたかを考えるようになった。
個人として尊重されるべきことと、強く期待される振る舞いに隔たりがあることはよくある。性別役割もそのうちの一つだ。日本では、女性の自立はどのように確立されてきたのだろう。それが、今回『山川菊栄評論集』を手に取った理由だった。
終わりまで読み通したわけではないけど、気づきとしては、私の想像していたより、なんて言えばいいんだろう、時代を超えて理解を得られそうな主張だった。
強い表現を使っているけど、無条件に善いとされる道徳として、主体性を抑えるような振る舞いを期待されているという指摘にうなずいた。
男女平等、ただ同じ条件に揃えるのではなく、受ける結果が等しくなるような視点だなと感じた。これはたまに思うことなのだけれども、何かを主張するときに対立する相手を下げると、主張を聞いてもらいにくくなる。と同時に、何かを主張せざるを得ないほど必要に迫られている状況では、難しいことだとも感じる。
これは同氏の主張というより、北欧の引用だけれども賛成した。育児家事の分担について言えば、落合恵美子氏が共著者の『アジアの家族とジェンダー』で述べていたように、中国での父母間の分担が日本よりも等しい傾向があることを思い出す。私の経験でもそう思うことがある。日本と中国でなにが違ったんだろう。
というところで考えが終わった、、
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