環世界を操る。
私が新社会人になった頃、私はなぜだかこの世界や社会の仕組みに懐疑的で、自分は無知のまま "何かの一部に組み込まれた、交換可能な手駒のようなものなんだ"という気分で過ごしていたのを思い出す。
世界はすでにたくさんのルールが決められていて、そこで人生をプレーすることに私はまだ全然腹が括れていなかったのだ、と今では分析している。そう書くと、とても投げやりでつまらない20代に聞こえるのだけれど、一方で「楽しさ」がなかったかといえばそうではなく、懐疑的に暮らしていながらも、「楽しさ」はもちろんあった。だけど、その頃の「楽しさ」の大半もまた、結局 "自分の手の届かない何か"の手のひらで転がされている気配がして、実はどこかにいつも「虚しさ」みたいなものをいくらか抱えていたように思う。(やっぱりつまらなそうだ)
(思いっきり楽しむにはどうしたらいいのだろう…)
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結論から言うと、その後、私は世界や社会のことを学び直して無知の克服に励んだことで(とはいえやっと皆んなに追いついたという感じ。そして、それでも絶対に手の届かない知の領域への葛藤を抱えながら)、そのどこか全てのことが自分の範疇にないことのように感じる「虚しさ」というようなものはだいぶ減ったように思う。
世界や社会のルールという枠組みを理解しなければその枠外もはっきりしない。枠外がわかると客観という視点が身に付く。要は、自分の立ち位置が分かったということでもある。(交換可能な手駒を客観的に見れた時、それは交換可能な手駒ではなくなる)
知らないうちに何かの一部に組み込まれている感覚が、自分の楽しさの感覚まで虚像に感じてしまう感覚。私は私以外にこの感覚を持っているという人にあったことがないのだけれど、これって人間特有の感覚であることもその途中でわかった。
環世界の話。
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人間はずば抜けて環世界の移動能力が高い。(とはいえ、自分の環世界の中での”移動しているつもり”ではあるのでだろうけれど)つまりあらゆる立場の世界に対して想像力を持ちやすいし、それに共感できる力が高いのではないかと私は解釈している。
自分だけの立場に没頭できたならば、そこに抱える虚しさなどは存在しないのだと理解する。だから、この “環世界移動能力=他の世界への想像力”が高いほど、時に自分の世界に疑問を持たせるのではないかと思っている。環世界の移動はある意味他者への思いやりや優しさを産む反面、副反応的なものとして(個人差がある)自己の知覚・認知に没頭することを阻むトリガーにもなりかねない。
それを理解して以降、私は自分自身の知覚こそが唯一無二の大事なものであり最優先事項だと決め、「身体感覚」を感じることを大切にし始めた。そして、それを実践することでようやく「楽しむこと」に本当の意味で腹を括れたような気がしたし、”真に主観だけで楽しむことに没頭する”ことができるようになったのは、私の人生の大きな出来事だった。(一方で自分の知覚でさえも社会や文化に左右されている認識を持ちながら)
最後に、今日の中で一番大事なこととして力強く書いておきたいことがある。
冒頭に「世界はすでにたくさんのルールが決められていてそこで人生をプレーすることにまだ全然腹が括れていなかったと今では分析している。」と書いた。だけど本当は、
”自分が腹を括れていなかった=自分のマインド設定ができていなかった(未熟だった)からこの世界に違和感があったわけではない”ことを過去の自分に強く伝えておきたい。
虚しさや違和感が個人由来のものではなく、社会や世界、文化が潜在的に孕む構造自体に由来するものだ。と思うと、少々救われるところがある気がしている。
正直に話すと社会人としてのマインドセットができていない部分も、もちろんある見方からするとそういうことになるのだろうけれど、それにフォーカスすることは、ただ自分を責める他何も及ぼさない。どの時代、どの文化、どの社会、どの会社にも構造が起因となる違和感があるのではないかと思っている。(奴隷が奴隷であるためのマインドセットってなんだろう?私はいつもこれについて考えるときよくこの疑問が浮かんでいた。疑問は私の中のただの例えであって真実ではないのでご承知おきを)
環世界の移動は先述した通り、うまく使えば他者への思いやりを持つことを助け、相互を尊重し補完しながら平和に暮らしていけることに大いに役立つ。ただ、昔の私のように副反応的な使い方が強く出て、自己の認知に没頭しづらくなくなることに加え、自分を責める思考が加わるととても生きづらい。
環世界の移動に振り回されるのではなく、操ってうまく生きていきたいものである。
という私の環世界の話。
※本文は環世界の概念に自分の解釈を加え、自分の世界を紐解いているため、環世界の概念の本質を説明しているものでは全くありません。