コンプライアンスを叫ぶことは怠慢である説
僕らは、法律家であるがゆえに法律を守ることは多数派の意見を尊重し、かつ、世の中の安定につながることと結論づける。
それは、少数派の意見を聞かないことと、世の中の変化に対応できないものを生み出すことに繋がる。
コンプライアンスなどは最低の限度であり、かつ、世の中のモラルとあるべき姿に近づけることが必要だ。というのが世の中の主流であり、その通りだと思う部分はある。
しかし、そもそもが怠慢だと思うのだ。人間というのは規制をされた時には、ギリギリで考えてしまう。良いことをしようというものではなく、悪いことをしないようにしようと。規制は常にしないことのインセンティブになる。
アフォーダンスをご存知だろうか?
自分的な定義ですると、世の中の設計でやりたくないことを意識せず、多数の人の意図とは関係なく、目的に該当する行為を自動的にしてしまう設計をすることと考えている。
そもそも、 研修や教育だけではもはや足りない時代、むしろ、率先して良いことをしていこうという流れこそが今の主流になるだろう。
SDGsは、世の中に良いことをしようという設計に従事するものだが、残念ながら抽象的すぎて、我々のアフォーダンスやアーキテクチャーになっていない。
我々が問いかけるべきなのは、子供に胸を張って言えるか否かなのである。
残念ながら、子供に胸を張って言えるのは、子供を持ってから言えることなのかもしれない。しかし、グレタさんの声が聞こえてきた時に、グレタさんの声を聞きながら、彼女に大声で胸を張ることができるかは自分の胸に問うことは可能だろう。
我々は常に大人として振る舞おうとする。それは将来の人、つまり子供たちの心を忘れることにつながる。
目の前の魚の取れ高をできるだけ最大化することで、将来の魚の取れ高を忘れてしまう。
なぜ、そうなのかといえば、4半期での開示、資本主義での勝ち組設計、富めるものを生み出すことで多数の貧困層を生み出した現実を看過することからだろう。
Libertyは、自由になる、解放される程度の意味とすれば、Freedomは自由であり続ける継続的な責務だろう。ついつい我々は刹那的な解放によって安易なカタルシスを得ようとする。しかし、我々は自由であり続けるための責務を忘れている。そして、責務を果たすものを称賛していない。あくまでの弱者を虐げる極端な資本主義に陥ろうとする(自己責任論)。
自己責任論は、不可能である事実までも、責任論で解決しようとする。しかし、我々が必要なのは自由を設計することなのだ。自由を設計するときに大切なのは、フェアネスを調整し、できるだけ多数の幸せを作り上げることだろう。
法律を守る、コンプライアンスは自由設計としては劣っている。なぜなら、良いことをしようというインセンティブ設計がされていないからだ。あくまでもマイナス配点でしかない。
我々はなぜ遵守をしないかを考えなければならない。インセンティブを作らなければならない。刑務所に行くからやめようねでは、説得力は全くない。
以上のYouTubeは、マッチョかもしれない。我々が欲しいのは緩やかなアフォーダンスの設計であり、PRを交えた社会的設計だ。SDGsで少し寛容度が増してきた。我々の国は、三方よしをもともと社会設計してきた。
その中で、いかにKPIと称賛部分を再度設計し直すか、アーキテクチャーを作り上げるかを考えなければならない。
サンプルの焼き直しではもはや話にならない。それぞれ独自のストーリーを作り、競争社会を乗り越え、もしパクったとしても逆に競争者はブレーキになってしまう設計を作り上げる。
スターバックスは、人種差別の防止につなげて研修を大大的に行った。これは、サードプレースを標榜するカフェ、そして直営店だからできる措置である。このストーリーは、他のカフェでは描きにくいものであっただろう。例えば、単価を安く回転率を高くするものについては大損害になる。
ブランドを高めるため、自分の企業の価値を高めるために無意識的に行動するアフォーダンス設計を法務がPRとともにやっていけるか、つまり、自分たち一人で抱えない仕組みを作り上げることこそが、ネクストの法務において大事なことと認識している。
スキ、その他の行為は、元気玉として有効利用させていただきます。皆様のお力を少しでも世の中の改善に使わせていただきます。