お寺のDX(デジタルトランスフォーメーション) DXその40 思考の転換

1.「お寺」の危機

お寺のDXというと、物々しく、人生を変えていく形に思うだろう。檀家が減り、お寺も減る。だから、お寺の危機なのだと。

それはリアルの「お寺」の話であることは間違いない。これはハードウェア思考ともいえる。大量生産、大量処理時代で物の時代の考え方である。

これに対して、タグ付け、ソフトウェア的な思考になると別の観点がうまれてくる。

2.「オテラ」の隆盛

このタグ付け、ソフトウェア的思考とはどういう思考か。ハードウェアからソフトウェアに変わると、SNSその他の拡散機能が出てくる。すべてはつながり、場所という概念は希薄化する。そして、各々の人たちは、タグ付けされ、複数のスキルセットを駆使して生き延びる。

過去は、●●の出身であるという名刺が有効だったが、今は何々をしていて何々詳しいというタグが説明をしやすい。それだけ、●●の出身は会社が30年で朽ちるタグであるがゆえに弱くなっている。

オテラは、1000年以上継続していることもあり、由緒はある。しかし、過去から宗教は様々な最新テクノロジーを駆使して布教を伝えていた。エバンジェリストという言葉は、布教者という意味であり、バイブルは世界で一番読まれる本になっている。つまり、箱が重要な訳ではなく、あくまでも教えと工夫が大事なのである。

機械化の時代、そして、今はインターネットの時代と生まれ変わっている。それなりに悩みは全く違うものになっている。しかし、宗教で類似しているキーワードはある。それは宗教は、生きるために必須のエンターテインメントであるという事実だ。直視できない事項を神というフィルターを通して、集中し、メンタルを傷つけない。

一般的に、エンターテインメントの要素は、一時的な快楽、意味付け、そして没頭というものがある。快楽は、宗教とは結び付きにくい。寧ろ、後者、意味付け、没頭というものが結びつきやすい。

祈る行為は、没頭する行為である。そしてできるだけ効率的にしたいということで、大乗仏教へ変化してきた。短くなり、より大衆に受け入れやすい環境を整えてきた。これに対して鎌倉仏教は、武士のための仏教として異なるサービスを提供した。

サービスを提供することで心の安寧を取り戻すこと、これはインターネット時代によってますます必要になったサービスなのだろう。だから、「オテラ」の必要性はまだまだある。

単に「お寺」という存在から脱却できないということだろう。やるべきことを減らす、パリサイ人にならない(形式を重視しすぎない)ことが大事である。

お産で安心したい人は、水天宮など、タグ付けによってより元気になる「オテラ」があることを理解して、自分のすべきことを考えていく方が良い。

ハードが必要ではなく、ソフトをうまく活用することで、全体的なニーズに気づく事が大事ということだ。そのために、1人1人のニーズに気づき、それに向かい合うこと。それを一からやらないといけないということにこのDXの難しさがある。

3.コミュニティの育成

コミュニティを育成することが本来的なオテラの役目だったはずだ。

葬式だけではコミュニティは育成できない。やるべきことが多すぎて、何もできないというものではない。やるべきことを減らし、タグ付けをすることから始めた方が良い。

その上でのコミュニティ作りこそが、本質的なDXへの変革に繋がろうのであろう。

その時に、一番上のDXの仕組みが一例に過ぎないことがわかるだろう。

ハードは別になくても良い、目的、ソフトが生きていればそれでよいと分かると、何が一番大事なのかわかってくる。



スキ、その他の行為は、元気玉として有効利用させていただきます。皆様のお力を少しでも世の中の改善に使わせていただきます。