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虚無の中に

 例えば何も予定のない休日に、特別やりたいこともなく、ただ時間を持て余して過ごしたとする。大抵俺はその後に虚無感を得る。無駄に過ごしてしまったことを悔やむのだが、かといって何かをすれば良かったという明確な後悔はない。無駄にした事実だけが確かに感じられる。
 筋トレやストレッチをしていたらまだ良かったかもしれないが、それらは習慣化しないと何ら意味をもたない気もする。習慣化するまでには、それなりの期間が必要であり、よほどの意欲が必要だと思う。

 そもそも、何が言いたいかと言うと、怪我をしてからの生活は基本的にこのような無駄な過ごし方をしているのだ。横たわる。本を読む。スマホをいじる。ゲームをする。スマホをいじる。映画を観る。スマホをいじる。
 だがしかし、1日の終わりに虚無感は無い。活動の限界を分かっていて、限定された生活であるが故なのかもしれない。

 自由の中だからこそ起こる不自由さというのは中々息苦しいものだ。今の自分は不自由さの中で精一杯過ごしている。トイレに行くのも着替えるのも、歯を磨くのも食事をするのも。身体を動かすことにこんなにももがいている。虚無感など感じる余裕はない。むしろ、昨日より出来るようになったことに喜びを感じる。以前は容易にできていた一つ一つにだ。

 日常生活をすること。
 仕事に復帰すること。
 クライミングに復帰すること。
 友達に会うこと。

 以前の生活が遠い。
 正座ができるようになるのは何ヶ月後だろうか。
 クライミングで限界グレードの課題を打ち込めるのは何ヶ月後だろうか。

 先を見ても仕方がないので、一先ずは小さな目標のために頑張っている。昨日は左足を浮かせたことが嬉しかった。今日はシャワーを浴びれたことが嬉しかった。

 嬉しさの影には苦しさもある。
 左足を浮かせるためには左太腿の筋力をかなり使う。
 シャワーを浴びる時には左足を常に浮かばせていないといけないため、安らぐというよりも汚れを落とすことに焦点をあてた作業感がある。


 虚無感を感じられる幸せがあったのかもしれない。その場ではマイナス的な要素でも後にプラスの要素が見える時がある。

 そう思うと、今の現状もいつかはプラスになるのかもしれない。怪我と入院と手術を経験したことが何かに活かせると良い。今後の過ごし方が変わるかもしれないし、もしかしたら怪我前と何も変わらない生活に戻っていて、無駄に1日を過ごしているかもしれない。ただ、その時に、虚無感の中に小さな喜びもあるのかもしれないと思った。

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