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塩をかけたスイカ

 ふと友達との会話を思い出した。

脈絡とかは忘れてしまったけれど、その時に俺が言ったのは

「友達との約束の日になるとどこか悲しい。楽しみにしていた予定が終わってしまうことに寂しさを感じる。」

といった内容だった。

 誰かと何かの予定を立てた時、前日の夜あたりになると心の落ち着きが少し失われて、心の中で童心が踊り始めている。年甲斐もなくと思われるかもしれないが、何かに期待を抱くのは良いことだと思うし、子ども心が薄れるような大人になんてなりたくないというのが私論なので構わない。

 それこそ、自身の誕生日やクリスマスを、指折り数える子どもの姿を見た時は愛おしくてたまらなくなるのだ。「楽しみだね。」と頭に手をおいて微笑んでしまう。


 日常は目まぐるしく流れていく。日によって時間が身体をすり抜けていく速度は違いこそすれど。


 どんな時間も過ぎていくことを知っているし、これから先に楽しいことがあるのも分かっている。でも、その瞬間を自分は通り過ぎて、あとはもう後ろに流れていく一方なので、どこか寂しい気持ちがあるのだ。それは、そこに至る過程までに期待感が高ければ高いほど、だ。


 どんなに楽しい時間もいつかは終わるし
 どんなに好きな相手ともいつかは離れる

 といった、一見妙にネガティブな考えが、いつしか心に巣を作っている。決して人生に悲観的なわけではなく、まぁそういうもんだよな、と変に受け入れてしまっているのだ。その考えが物事を良い方向に運んでくれることもあれば、弊害となっていることもある。

 何事も二面性がある、というか、一つの角度から見ている景色で、物事の全てを理解できることは決してない。例えば、俺の好きなあの人のことを誰かは嫌いで、俺の嫌いなあの人のことを誰かは好いている。俺という角度からは知れない姿があって、俺という角度からだからこそ知れる姿があるのだ。

 そして保育にもその考えはある。好き嫌いといった話ではなく、『多面的な保育を』という意識があり、子どもの実像を捉えるために職員間で子どもの姿や、感じたこと、捉えたことを共有することで、子どもへの理解につなげていく。

 上の悲観的な捉え方だけを招いてしまいそうな言葉も、それ故に良い影響を及ぼしていることもあるのだ。

 楽しかった思いと終わってしまった寂しさがある。
子どもの時にはこんな感傷的な思いを知らなかったので、いつからこんな風に感じるようになったのだろう。

 ただ、どこか寂しいという感情が嫌いかと言われると、そうではない。スイカに塩をかけて甘さを際立たせるように、寂しさは楽しかったことをより実感させてくれることがある。寂しさを楽しんでいるという矛盾した思いを知った時、俺は大人になっているのだな、と漠然と感じる。


 今日、術後11日目。歯医者に行った。
いつも自転車で5分ほどで着くのに、松葉杖だと30分近く費やした。
晴れた空、暑さも体力を奪い途中途中休憩を挟まなければ動けなかった。
大通りを渡る時は、信号が途中で変わるのではないかと不安に思いわざと速度を遅らせて交差点に着くまでの時間を調整した。
バランスを崩さぬように、と松葉杖を握る手に自ずと力が入ったのだろう。帰宅をしてヒリヒリしている掌を開いて見ると、左掌にはうっすらと水膨れができていた。
 歯医者を終えて帰宅した時は安堵した。無事に行けて良かったと。そんな安堵をすることに疲労も感じた。

 その後、マー坊が実家に見舞いとして来てくれた。
母親も交えて3人でリビングで過ごし、昼飯としてピザを食べ、テレビから流れるニュースを見てあれこれ話し、クライミングの話やお互いの家庭の話をする。途中でマー坊が持参した道具と珈琲豆を使って美味しいアイスコーヒーを淹れてくれ、手土産のレモンケーキと一緒に頂く。
マー坊が眠そうな表情になっていたので眠るか尋ね、干していた俺の布団をリビングの隣の和室に敷いて彼は眠る。
 起こすまでの間、当然ながら会話もなく、俺は俺でボーッと過ごす。
その時間が何とも言えない心地よい時間だった。
怪我をしてからボーッと過ごす時間が増えた。
その時と全く同じことをしているのに、気持ちが全然違う。違うことを感じる。
 どのタイミングで起こそうかと悩みつつも起こす。起こしたタイミングで帰宅に繋がるとわかっていたので、少し先延ばしにしていた思いが無きにしも非ずだったが、自分のエゴでその場に引き留めたところで意味はなさない。
 リラックスして目覚めた様子を見て、少し嬉しく思う。良い意味で気を使わずにいてくれることは嬉しい。そうして、楽しみにしていた1日が終わる。


怪我をするのは辛いことの方が大きい。できればしたくなかったし、二度としたくない。でも、

 悲しい思いがいつか楽しさを引き立てる。
 辛い思いがいつか喜びを引き立てる。

と思えば、まだ、前向きになれる。

 今日、ボーッとしていたあの時間は塩をかけたスイカのようだった。
 サッパリとした甘さで水々しい時間が流れていた。

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