よくわからん
※また躁鬱の話
躁鬱なのか?よくわからない。
前のメンクリでは医者から診断名を開示されてなかったけど学校宛の紹介状の中身を勝手に見たら躁鬱2と書いてあった。2022年の冬。その時衝撃を受け、それからそうなんだと思いながら過ごしている。けど自分の気分がよくわからない。波があると言えばある気がする、けど元からこんなんなような、落ち込んでるようでも笑ったりよく飯を食べたりする日もある。自分が病気なのか疑わしく、当時アホだったので医者に通うのをやめてしまった。なんか怖かったし話聞いてもらえなかったから。今年の8月いつまで経っても全然うまく生きていけないしようやくやっぱりやばいと思って、というか本読んだりネットで何度も調べて躁鬱じゃなくて絶対境界性パーソナリティだと思って新しいクリニックへ。初診で恥を偲んで、勇気を出して境界性だと思うんですけどって言ったけど2、3聞かれてまあそれは元の診断通り躁鬱なんじゃないですかねって言われた。それでなんとか通い続け薬を飲み続けてるけど。確かに薬飲む前より冷静に考えられ、酒とか危険な行為への欲求が落ち着いた感じがする。ただ、ほんとに躁鬱?とまだ半信半疑だ。ADHDなのは多分そうだが、強めのADHDなだけではないかという気がする。何よりも、もし私病気なんだとはっきり認識した後にただの怠惰で憂鬱な健常者でしたってなったら辛すぎるだろうからだ。病名の診断があるまで実際に数年間そう思いながら生きてたので人生に対してヤケクソだった。常にもうどうにでもなれと思いながら出会い頭の人と付き合ったり。次の日授業でも卒業の見通しや就職など考えたこともなく、どうせそのうち死ぬと思って貯金もせず借金をホイホイ作り人間関係も全部テキトーで。バーにいた知人の知人にいきなりラインで告白して付き合って速攻振られたり。現在しかないという生き方をしていた。とりあえず、自分が躁鬱2型の人間として振る舞うことがとりあえずは身についてきた。家族や知人はガッツリ面と向かって伝えたことないので多分把握していない。ただのイカレアル中女と思っているだろう。ただ先述の理由から半信半疑で、医者に症状を話す時も「本当はこいつ躁鬱じゃないけど金取るために診断しただけなのに演技してて草w」と思われてるんじゃないかと気が気じゃなく、あんまりがっつり話さないようにしている。恋人にも、「多分今躁だ!」とか「多分鬱きてる」というふうに伝えているが「こいつ病気でもなんでもねえくせにいちいち自分の気分を大げさに話す森田神経質のヒポコンドリー野郎だ」と思われていそうで、いつも冷や汗をかいている。今日も公園で私が草の上に座り込んで自然音を聞いて「天然のアンビエントみたいで気持ちいい」と言ったら「感受性豊かで羨ましい。僕はここにいても得るものが一つもない」と返され、ものすごく馬鹿にされた気がして怒ってしまった。感受性豊かという言葉は毒にも薬にもなりうる、いわゆる地雷ワードだ。病気じゃないのに楽するために演技していることを見抜かれたような気分がして、ものすごく落ち込んで泣きながら草の上に座り続けてたら就労移行支援に見学に行く時間をすぎていた。そのあとはなんかもうどうでもいい気分になって、ベッドに入って音楽を聴きながらヘーゲルのちんぷんかんぷんな文章を読んだ。時たま、マジじゃんと思えることが書いてあるからすごい。その後ジュンク堂に行ってあれこれ迷った挙句、ついに無意識に忌避していた躁鬱大学を購入した。本当はお守りになりそうな詩集が欲しかったけど例の如く所持金不足で、予算800円では戦えなかった。躁鬱大学を読み始めてしまうと、もうなんでもない一般人の自分に戻れない。激しく影響を被ることが予想される。今少し読み出したが、初っ端から過去にネットで見つけてすごい感動したけど自分にとって都合がいいことばかり書いてあるから嘘だとしてパソコンのフォルダの隅っこに押し込めていた神田橋條治がでてきて、あまつさえこれをテキストにした本だということが書かれていた。あれを読んでいると、人生がすごく楽しくなるんじゃないかという予感が胸にわーっと押し寄せてきて、それ故に危険なのだ。自分をいかに調子に乗らせないかというところで気をつけ続けないといけない。まあ、テンション下がる厳しいことが書いてある本を読みバランスをとりながら読み進めていこうと思う。すでにいても経ってもいられなくてこのnoteを書き殴ってしまっているが。休んでいいという言葉に惑わされず、やるべきことはしっかりこなして明日からも生きていこう。鬱期なのにテンション上がったり下がったりしている。
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