<まっしー運命学研究所>神的な自分を探す5:限界
ども、所長のまっし〜でございます。
人の身体には限界があります。
肉体の構造上の限界です。
しかしどこまでが限界なのか現代では既に決まってしまっているかのようですが、本当にそうなのでしょうか。
では行きます。
人は可能だと思うことは出来るようになります。
出来ると思い込むプラシーボ効果で普段出来ないことが出来るようになってしまう例は、在りますから。
限界点というのは、他人の技を見たり、教えてもらうことで限界の壁が壊れて、変わって行くものです。
本来、人は誰もが何かしらの得意性を持っている筈です。
それを社会の教えによって、可能性を削られて来ただけです。
何事も興味を持つ部分は人それぞれ。
また、興味に勝る成長は無いと思います。
スパルタで叩き込む手法は、その鍛錬を乗り越えさえすれば、先生の技は身につくものかも知れませんが、心が歪んでしまいます。
持続する性能を持つのは自主性です。
また、新たな発想も自主性によって産まれると思っております。
そして高みを目指すことが全てでは無いという心を軽くした価値観と、自分にしか持ち得ない感性を同居させたような心境を持ち、心を活かした鍛錬によって、限界点を上げてくれる人との出会いを呼び込む。
ネット社会はこういった出会いが起きやすい環境かと思います。
そしてこれもまた、これが全てでは無いです。
可能性があるものにアンテナを張り、その成長への出会いが何であるかはあまり重要では無いということです。
内なる自分の声が求めるもの。
外側の為の価値観を脱いだ本当の自分の求めるものに向かう時、運命は必ず味方をしてくれます。
リラックスして無心状態の時、内なる自分を感じるものですから、最大限の力を発揮出来るという意味でも、時は重なっているということです。
所長は迷いが無い時、人の能力は開花すると信じています。
限界突破を目指す価値観が必ずしも正解かどうかはわかりませんが、一つ一つとらわれを解除して行くのは、大変面白いものです。
共鳴の法則からすると良い波動と触れたり、良い波動を発していると、周りの環境も人も変わって行きます。
出会いがあれば別れもある。
ただ、高みを目指すが故に簡単に離れてしまうのも何だか悲しいです。
高みでも強さでも金儲けでも何でも価値観の違いを受け入れる器で在りたいものです。
悟りについて現代の常識からすると、私は生活の低みを目指しています!という位置付け位でいた方が理解してもらえるかも知れませんね。
少し馬鹿にされる位で丁度良いです。
それでは、次回は無について語らせて頂きます。
因みに、物質は劣化して行くものですが、価値が上がる物もあります。
価値観が劣化と認識しているだけですね。
ありがとうございます。