思い出売り
みのるは重い瞼を開けると、じめついた空気の中ゆっくりと身体を起こした。身体中に鉛のような重みが纏わりついていたが、しばらく経ってそれが自分の身体そのものであることに気づいた。鈍くしか動かない自分の足に力を入れようとしたが、するどい茨で出来た鞭が縛り付けられているかのごとく身体全体が痛くて力が入らない。途端胃から口内に酸味のある物がせりあがってきて、みのるは豪快に口から吐き出した。
こめかみが痛くてズキズキする。ここはどこだ?
鼻を突く生ごみの匂いだろうか車の排気口から出るガソリンの匂いだろうかが、容赦なくみのるの鼻の粘膜を突き刺す。みのるは捻じ曲げられるように痛む関節の叫びを無視してゆっくりと立ち上がった。辺り一面はうすく霧がかかり、所々その霧の隙間から見えるコンクリート色はどこかの街の裏路地にたたずむ廃ビルだろうか。みのるはズキズキ痛むこめかみを押さえつつ、懸命に昨日を記憶をたどった。
確か昨日は朝早く妻に起こされて、、。 くそ、あいつときたら。俺が起きたばっかりで疲れもあまりとれていないというのに、少しは家事を手伝ってくれだの小林さん家の奥さんのマウントがきついだの、どうでもいいことばっかり話しやがって。俺は家事もやって、さらに仕事にまでいかないといけないんだぞ。家事くらいはせめて専業主婦のお前がやってくれ。14になるバカ息子も最近やたら反抗的だ。人の言うことを全く聞きゃしない。夜の2時までオンラインゲームをしてるんだぞ。注意すれば無視してきやがる。誰がそこまで育てたと思ってる?何回も警察に補導されているし、資格の勉強さえまるでやる気がない。出来損ないめ。また何発か気合いをいれてやらんといかんようだ。
あーっくそっ、頭が痛い。昨日も夜遅くまで社長に飲みに付き合わされたせいだ。どれだけ飲んだんだっけか、焼酎を6合くらいだったか。部下が酒を飲みすぎて潰れていくのを見るのが趣味だなんてどうかしてやがるあいつめ。
それにしてもここはどこだ?昨日の夜は居酒屋を出た後あいつと別れてそのまま家に帰ったつもりだったが。
薄いもやに囲まれた裏路地は陰鬱で味気のないコンクリートに囲まれ、見ているだけで気が滅入るほど殺風景だ。
ふとその時みのるは、靄の向こうから小さな明かりが近づいてくるのが見えた。ゆらゆらとふらつきながら近づいてくるその光は、靄のベールに覆われつつ淡い光を周囲に投げかけている。やがて靄が晴れて中から光の持ち主が現れた。それはちょうちんを掲げて、頭の先から足先まで覆う動物の皮のようなつぎはぎだらけのローブを着た男だった。
「おや、これは珍しい。お客さんですね。」
その男は軽めの口調でフードの下から言うと、フードを上げてその顔を見せた。そこにいたのは年若い見た目をした青年だった。細めの顔立ちと丸く描かれた輪郭がみのるの目を引いた。少し縮れ気味の油っぽい黒髪が首から鎖骨あたりまでを取り囲んでいる。
「お兄さんお兄さん、良かったら私の商品買っていきませんか。最近客が少なくて、もう商売あがったりなんですよ。」
みのるはその男を胡散臭そうに見た。
「なんだい、、あんたは。何を売ってるっていうんだ。」
その男はローブの上で肩からさげていたローブと同じくらい年季の入ったつぎはぎだらけの鞄を腰の前まで動かすと、その鞄を開けつつみのるに話しかけた。
「私はね、【思い出売り】なんです。あなたにも多分分かってくれると思うのですけれどね、昔の日々がとても懐かし思えてあの頃に帰りたいなと郷愁の念に駆られることはありませんか。」
男は鞄の中から小さな香水瓶のような物を取り出した。
「そんな時はですね、こちら。こちらの商品をひと嗅ぎするとですね、懐かしい昔の日々が思い出されるのです。今なら特別体験、料金お安くしておきますよ。」
みのるが差し出された瓶を見ると、中にはローズピンクやライトブルー、コバルトグリーン等の色の靄が蜷局を巻いて渦をなしていた。その瓶の中の鮮やかに移り変わる色々のきらめきは不思議とみのるの心をとらえた。
「興味を持っていただけましたか。それでは、お試しください。」
男は香水瓶のふたを捩じって開けると、それをみのるの前に差し出した。開け口からは、さまざまな色が混ざり合った靄が立ち上がっている。みのるは自分でも説明できない衝動に駆られて身体を前に出し、香水をひと嗅ぎした。
みのるは道路に立っていた。あれ、、ここは?さっきまで俺はどこかの路地裏で出会った男に香水の瓶を差し出されて、それで、、
突然みのるは自分の腰に何かが勢いよくぶつかるのを感じた。思わず体勢をくずし地面に膝をつく。すると後ろから申し訳なさそうな女の人の声が聞こえてきた。
「あ!すみません、、大丈夫ですか?」
みのるは振り返った。そこには、20歳を少し超えたくらいだろうか、利発そうな外見の女性が自転車にまたがったままこちらを心配そうに眺めていた。染められたボブの髪が太陽の光を反射して赤茶色に輝いている。
「いや、、すみません。今から会社に行くのに、、遅刻しそうで、、つい、、、。」
みのるはしばらく呆然とその姿を眺めていた。
「、、、香里、、、」
女の人は、少し戸惑ったようにみのるをじっと見つめた。
「、、、どうして私の名前知ってるんですか。」
みのるはふと何かに気づいて、周りを見渡した。みのるがいたのはもう廃ビルと靄に覆われた裏路地ではなかった。空にはどこまでも透き通るようなコバルトブルーの色合いが広がり、透明な日差しが潤いのベールで樹々や人々、家屋を包んでいた。そこにあるのは穏やかな夏の日の午後だった。
みのるはその風景を信じられない思いで眺めていた。あの男の言っていた通りここは、、、間違いない、、昔俺が初めて妻と知り合った場所だ。ここでみのるは会社に行く途中の妻と自転車事故を起こし、2人が知り合うきっかけになったのだ。振り返ると香里、まだ若い頃の自分の妻が不思議そうにみのるを見ている。
「あの、、、すみません。私会社に行かないといけないんです。 こちら私の番号になります。もし何かありましたら連絡してください。」
雨が降っていた。周囲一面には大粒の雨が降り注ぎ、道路を、電線を、空を、濡らしていく。みのるは周囲の様子のあまりの変化に驚き周りを見渡した。ここは、、、この場所は、、、
「ねえ、、、みのる君。」
そこに聞こえてきたのは、かすれた弱々しい女の人の声だった。
「、、今日は、、、もう少し、、、そばにいて、、いいかな。」
みのるは声のする方を振り返った。そこにいたのは普段の明るい笑顔の絶えない香里ではなく、まぶたから止まることのない涙を流し真っ赤に泣きはらし死んだように虚ろな目をした香里だった。そうだ、、、思い出した。この時香里は自分が可愛がっていた弟を病気で亡くし葬式を済ませた、その帰り道での出来事だった。香里は弱々しく、雨に濡れた手でみのるの袖をつかむ。雨に濡れ冷え切った腕に温かい人のぬくもりが伝わっていく。みのるは何も言うことなく香里を抱きしめると、自らの腕の中に雨でぬれてぐしゃぐしゃになった香里の頭を抱きかかえた。やわらかな香りが、ふんわりとみのるの鼻をつく。香里は目を上げると、泣き腫らした瞳でじっとみのるを見た。みのるもじっと見返した。ふたりの距離が近づいていく。
みのるは白い壁に囲まれていた。消毒液だろうか病院特有の匂いがみのるの鼻の中に広まっていく。急に周囲の風景が変わったことに驚く暇もなく、廊下の向こうで何人かの白衣を着た看護師が忙しなく治療室に入り込んでいく。みのるはとっさに立ち上がると急いで駆け寄った。その姿に気付いた看護師の一人がみのるの前に出る。
「奥さんと赤ん坊の状態はあまり、、、よくありません。とても危険な状況です。もしかすると帝王切開が必要になるかもしれません。」
みのるは自分で何を言っているのかわからないまま何事かしゃべった。看護師は答えようとしたが、緊急を知らせるアラームが鳴り様々な光が治療室の中を照らし出した。中から緊迫した様子の声がする。
「、、、このままでは、、」
「切開の準備、、急いで!」
看護師は「ここに居てください」とだけ告げると、急いで中に入っていった。溶けて流れる時間、慌ただしい動き、緊迫した空気。そして
みのるは自分の腕に重みがかかるのを感じた。そこにいたのは新しい命だった。自分と自分が最も愛した女性との間に生まれたかけがえのない1つの始まり。自分が何者かまだ意識することなくそこにある命は、授けられたばかりの身体の感触を確かめようとするかのように自分の手を握っては拡げ、まわりのあらゆるものを不思議そうにまだ感じ取れない眼で追いかけまわしていた。
そうだ。あの時俺は誓ったのだ。俺はどうなっても良いからこの女性を、この子を、生涯通じて守り切ってみせると。父親に虐げられ助けてくれる母もおらず、およそ平穏な家庭というものを知らずに過ごしてきた俺に、ようやく安らぎの場所を与えてくれたこの2人を。こんな俺なんかでも愛してると言ってくれた、いつまでも帰りを待っていると言ってくれた、毎日社会に押しつぶされて傷ついていく弱々しい背中を一生懸命頼ってくれた、このかけがえのない存在を。
みのるは再び靄のかかった裏路地に立っていた。そこはみのるが最初目覚めた時のように陰鬱で殺風景な風景が立ち並んでいた。しかし今のみのるにはそれがまるきり違って見えた。
「、、ありがとう、思い出売り、、さん。どうやら、俺は、、、長い間、、忘れていたものを、、思い出すことが、、出来たようだ、、。」
思い出売りはにっこりと笑ってみのるを見返した。
「喜んでいただけたのでしたら嬉しいです。」
「俺は、、、帰ることにするよ。俺を待ってくれている場所へ。帰って、、家族に会って、、そして、やり直すよ。今まで散々、、ひどいことをして、、しまったことを謝って、、、そして、、、」
「帰る?どちらにですか?」
「、、、俺の家さ、、」
思い出売りはじっとみのるを見た。その表情は自分が今聞いた内容を繰り返し反芻しているようだった。そして言った。
「ははあ、、、お客さん、気づいてなかったのですね。それは無理ですよ。だって、、、
あなた、もう死んでますから。」
みのるはその時、さっきまで自分の周りに広がっていた白い靄が完全に晴れ、どす黒く赤々とした血のごとくの流れる大河が自分を覆っていることに気が付いた。見渡す限り地平線のかなたまで続く煮えたぎる赤黒い血はみのるの皮膚に張り付き、溶岩の灼熱で身体を溶かしていく。みのるはとっさのことに必死で振り払おうとしたが、自分の腕ではなく皮膚が溶けて白骨化した骨が胴体に生えていることに気が付いた。
「な、、、これは、、、一体、、」
「うーん、なるほどねー。どうにもなんか話がかみ合わないなと思ってたんですよ。お客さん、自分がもう生きてないことに気づいてなかったのか。」
「な、、、なにを、、、、言ってるんだ、、俺はまだ、、全然、、」
思い出売りはさっきのつぎはぎだらけの鞄の中から大きくて冷たく光る鏡を取り出すと、それをみのるの前に掲げた。みのるは思い出売りに話しかけようとしたが、鏡に映し出された自分の姿を見て息を詰まらせた。そこに映ったのは、頭がかち割られぱっくりと空き頭蓋骨の中から血にまみれた灰色の脳が露出している自分の素顔だった。
「あなた、本当に覚えてないのですか。崖から転落したのですよ、高さ10mはある崖から一直線。助かると考える方がどうかしています。」
「そん、、、おれ、、、おれは、、、、。」
思い出売りは鏡を再び鞄の中にしまい込むと、みのるに向き直った。
「それではお客さん、そろそろ最期の思い出分の対価をお支払いいただけますかね。」
その時みのるは、背後に途方もない寒気を感じ反射的に振り向いた。どこまでも続く地獄の底のような赤黒い渦の向こうに完全な無の世界が広がっている。そこから「なにか」、意志を持たない絶対的な力を持つ「なにか」がみのるに向けてまっすぐに迫ってきていた。その「なにか」は黒い腕を広げるとみのるをやすやすと握りしめ、丸飲みにしようとその口を大きく開けた。
「やめ、、やめろ、、、そんな、、俺は、、せっかく自分と本心と、、、向かい合えて、、自分が本当に大切にしているものに気づけて、、、、それで、、、これから、、、」
そこに思い出売りがみのるの前に進み出て話しかけてきた。
「この世とあの世の懸け橋の中、最期にひとときの喜びを味わってもらえましたか。それではまた、いやまたはないのか。永遠にさようなら。お元気で。」
そして、、、みのるは無になった。
おや、誰か見ている人がいますね。そうです、あなたのことです。この文を読んでいるあなた。そう、あなたです。
私の事、残酷だと思いましたか?最期に生きる喜びを見つけた人になんて仕打ちを、、と?
でもですね、死は誰にでも予想できない物なのですよ。誰も、いつ死に迎え入れられるかなんてわからないんです。それなのにどんな人も、なぜだか自分がいつか死ぬ時のことは考えないのですよ。不思議ですよね。全ての人は必ず最後には死を迎えるというのに。
、、ふむ、どうやらあなたにはまだもう少し時間があるようですね。残されたお時間、自分の思ったようにお過ごしください。それではまたお会いしましょう。大丈夫です、私は必ずお迎えにあがりますよ。