サウジとの関係修復中(タイ)
タイとサウジアラビアの外交関係は…。
とても良好とは言えません。
外交上手と評価されているタイにしては、ちょっと珍しいことなのですが、それは未解決の窃盗事件が背景にあるからです。
1989年、サウジアラビアの王室に雇用されていたタイ人掃除夫兼庭師が、契約期間を終えて帰国する直前、ファイサル王子の部屋から90キロを超える宝飾品を盗み出したのです。それらの盗品は、彼の引越し荷物とと共に、タイ北部ランパーン県にある自宅に送られました。当時は20万人のタイ人出稼ぎ労働者が、数年の契約でサウジアラビアで働いていたのです。この掃除夫もその一人でした。
掃除夫の帰国後、ファイサル王子とその側近が窃盗に気づき、タイ政府に捜査を要請。タイ政府は、当時警察庁長官補だったチャラ―警察少将(後、中将)を捜査責任者に任命。さっそく、国際的な窃盗事件として捜査を開始しました。
窃盗をはたらいた掃除夫は、自宅に送った宝飾品を即座に売却しようとしましたが、あまりにも高級品過ぎで、多くの宝石商がことごとく買取を拒否。出所がハッキリしないこともあって、「裏になにかあるに違いない」と警戒心が先だったようです。そこへ、買取を申し出た宝石商が現れたのですが、この宝石商は掃除夫の希望価格を大きく下回る査定を出してきました。掃除夫は金額に満足しなかったものの、他に売却できるあてがないことで観念し、結局この宝石商に安く売り渡したそうです。
一方、チャラ―警察中将率いる捜査チームは、難なくこの掃除夫の居場所を特定。さらに彼の自供によって、宝石類を買い取った宝石商もすぐに割り出し、ほぼすべての盗品を無事に回収。チャラ―中将自らがそれをもってサウジ王室を訪問、返却し、事件は一件落着となるはずだったのですが…。
サウジ王室は気づきます。
返却された宝飾品のほぼ半分が、偽物であることに。そして、盗まれた中でもっとも価値が高い50カラットのブルーダイヤモンドが、返却品に含まれていないことに…。
タイ警察に不信を抱いたサウジ王室は、自国の外交官に調査を命じます。さらに、王室と親しいビジネスマンにも、調査に協力するよう求めました。サウジ王室には、タイの社交界で女性が身につけている宝飾品の中に、ファイサル王子の部屋から盗まれたものがあるらしいとの情報が寄せられていたのです。このビジネスマンは、タイの取引先を通じて、富裕な女性たちが身につけている宝飾品について調べようとしていたらしい…。
王室の特命を受けて、極秘裏に調査を始めていた(とされている)サウジ外交官3人。
1990年2月1日、3人とも何者かによって射殺されました。1人は、バンコク都内にあるサウジ大使館近くの自宅マンションで。残る2人は、公用車で大使館から出たところで銃撃を受けました。
タイ警察は犯人を特定することができず。また殺害の動機についても、「最近、サウジ大使館はタイ人労働者の渡航に厳しい制約をかけているようだから、その逆恨みを買ったのだろう」とマスコミに話していたと報道されています。
さらに、王室と親しいビジネスマンも、射殺事件直後の2月12日から行方不明になっています(今も行方不明のままですが、サウジではすでに死亡したと推定されています)。
同じ日に外交官が3人も殺害されたのでは、これは重大な外交問題。タイ警察も動かないわけにはいきません。そして、タイ国外の多くのメディアも、「ブルーダイヤモンド」の所在に大きな関心を寄せるようになりました。
サウジ政府は激怒し、タイとの外交関係を一気に格下げ。
大使→代理大使→公使→代理公使というランクがある中で、タイには「代理公使」のみを置くという、厳しい姿勢で臨んだのです。もちろん、タイ人出稼ぎ労働者は絞られ、それまで20万人以上いたのに、突然1万人以下に激減。さらに自国民に対し、タイへの渡航を控えるよう呼び掛けています。
出稼ぎ労働者への厳しいビザ規制は、タイ経済にも影響が大きかった…。
出稼ぎ労働者数が減ったことで、1990年代は、サウジからタイへの年間送金額が7,000億円減少した、という報告も出ています。サウジで数年働いてカネを貯め、ゆくゆくは故郷で安定した余生を送りたい…こうしたタイ人の些細な夢が、大きく崩れてしまったのです。
国際的にも関心が高まったことから、タイ政府も、ブルーダイヤモンドの捜査を続行させることに。
ところが1995年、主要な証人である宝石商一家が誘拐されました。どうやら激しい虐待を受けたらしく、宝石商は瀕死の重傷を負い、彼の妻と14歳の男の子が、残念ながら死亡しています。
この事件では、黒幕としてチャラ―警察中将が逮捕されました。同中将は、回収した宝石類を横領し、口封じのために宝石商一家を誘拐・死傷させたというのです。
チャラ―中将は裁判で有罪判決(死刑判決でしたが、その後恩赦で懲役50年に減刑)を受けましたが、事件の事情について一切口を割っていません。瀕死の重傷を負って奇跡的に一命をとりとめた宝石商も、妻子を殺されたのに、口を閉ざしたまま…。こうした異様な状況と、タイ社交界で女性たちが身につけていた宝飾品の目撃情報から、「これは、かなり上の方に宝石が流れて行ったな」ということを推測させます。「ブルーダイヤモンドはタイ王室にある」とする情報も散見しています。これでは、正直に話した途端、命を抹殺されるに等しい…殺害された3人の外交官や行方不明のビジネスマンと同じように。
結局、未だに所在知れずの宝飾品。
でも、タイとサウジの外交関係は、改善していく方向のようです。
タイのプラユット首相が、1月25日にサウジを訪問し、ムハンマド・ビン・サルマン皇太子と面会しました。30年間悪化した状態の外交関係を、徐々に改善していくことで合意したそうです。窃盗被害を受けたファイサル王子も1999年に急逝されていますし、いつまでも外交関係を凍結したままでは、お互いに不便なことがあるのでしょう。
正式な合意書はまもなく締結されるそうですが、サウジは再び、タイからの出稼ぎ労働者を受け入れることになりそうです。また、タイからハラル認証を受けた鶏肉類も輸出するそう。国同士の関係が改善されることは、もちろん好ましいことに違いありません。
でも、殺害された外交官のご遺族、行方不明となっているビジネスマンのご遺族の気持ちはいかに。
そして、妻子を殺されたタイ人宝石商や、真実が話せない元警察中将の気持ちは…。
窃盗を働いた掃除夫は、まだ存命です。
彼は懲役7年の判決を受けましたが、正直に自白し、警察に協力したという理由から、3年で出所しました。彼は出所後、2016年に出家。余生を僧侶として過ごし、自らの罪を償うとしています。彼の行為が、どれだけ多くの人の人生を狂わせたか。たしかにその罪は重いでしょう。
もちろん彼は、自分の人生をも狂わせてしまいました。出稼ぎで貯めたお金で安定した余生を過ごす夢は破れ、家族も社会的に抹殺されたも同然。彼の息子は、姓を変えて別人を装わざるを得なくなったほどです。
ブルーダイヤモンドと他の宝飾品。
いったい、どれほどの価値があるというのでしょうか。もちろん希少価値はあるのでしょうけれど、それなら個々人の命だって、この世にひとつしかない絶対的な希少価値があります。それを思えば、たかが50カラットのブルーダイヤモンド如きで…という気持ちです。